計算速度が高速になり、プログラムとデバイスが進化するたびに、
バーチャルリアリティとリアリティの狭間は小さくなっていく。
現在では、
ARtoolkitなどの技術によって、日常空間に電脳イメージがリンク
するという事も部分的にできるようになってきたし、
立体ディスプレイも途上とはいえもう開発済みである。
(となると、普通のモニタやHMDは廃れるかもしれない。)
さて、哲学的な話なのだけれど、リアルとバーチャル、
どちらが本物のリアルなのだろうか?リアルに決まっているじゃないか、という人も居るかもしれないが、それはどうか。ノイズが混じったイコンよりも、Mac OS Xのアイコンのほうがよほどイコンとしてのリアリティを持っているではないか。信号的には、ほぼ100%の電脳イメージのほうがリアルとさえ言える。
しかしここには矛盾がある。そもそも我々のリアリティとは何か?
リアルな概念の正体とは何か?それは結局、脳内の抽象的な概念なのである。だとしたら、やはりバーチャルのほうがリアルなのかもしれない。
しかしここで問題が浮上する。バーチャルは必ずと言っていいほど、リアルを母体にして生まれるし、再現度が100%になる事もない。リアルのみに生きる人は一生、本物のリアル(本物の概念)を体感する事無く人生を終えるし、バーチャル(電脳イメージ)でも、再現度が100%になる事もない。なんと言っても、プログラム、数学的に難し過ぎる。本物のリアルを経験できるとすれば、それは、再現度100%のイデアをバーチャル上で目の当たりにした時とも言えよう。
人々がそろってオタク化し、バーチャルにのめりこみ、あまつさえリアルにバーチャルを適用しようとする(例えば3DCGで作った製品等)のは、結局、純度の高い概念のそばで暮らしたいという欲求があるからだ。
人々は、リ「アル」ではない、本物のリア「リティ」を求めている。
人生の中で一度でも、再現度100%のイデアという
体験をしたいと求めているのである。
電化製品の中身は夢のない機械なのに、その表面の筐体から機械がはみ出している事を人はとても嫌う。人は、デザインされたイデアの形をしているものが、願わくばそれ自体で機能していてほしいと願うものなのである。これは、子供が「着ぐるみは生きていて中に人など居ない」と信じたい欲求そのものである。大人になっても誰もが、本当は着ぐるみが生きていたらと思っているようなものである。個人向けコンピュータでこの傾向が顕著なのが、Macであったりする。「中に人などいない」という言葉がインターネットで有名なのも、そのせいである。かと思えば、「中(小人が)の人」というこれまた架空のイデアも人気がある。何にせよ、イデアを人は愛してやまない。恋愛についても同じ事が言える。「その人のもっと向こう側のものを愛している」という言い方があるが、つまりは、恋人そのものを愛しているのではなくて、人は恋人を通して恋人というイデアを愛しているのである。
故に、着ぐるみの中の人に相当するプログラマーやエンジニアのなり手は少ない。なれば必然的に夢が壊れるからである。普通に生きていれば、ほとんど筐体の中の機械やプログラムを目にする事なく生きて行ける。
人々のこの欲求は、どこから来るものなのか?脳は何故、子供の頃から
本能的に純粋なイデアを求め、それを「夢」と呼称するのだろうか?
つまりは、脳は概念を消費する臓器であるからして、
脳は完璧な概念の存在を求めるわけである。
これは脳の悲しい性と言うべきものかと考える。
ただ脳の満足のために、一生を費やす。脳は、神経が肥大してできたものである。私の文章や言葉にはつくづく夢が無いと思う。なぜなら、中の人とは何かをいつも解説しているのだから。