現在、未公開記事がいくつかあるが、どちらも公開のタイミング、TPOにはないと判断したため保留している。どれも内容は似ているが、読者の精神の根幹を揺るがす内容の記事なので慎重にもなる。そのうちの一つはおそらく「連山」のコラムとして出て来る(予定)。内容も、最初の連山コラム以外のものは、訂正を多くする事になるだろうから、ローカルにあるものは推敲されていない初期バージョンである。
永井俊哉氏の受け売りであるが、生きるという事は、川の流れに逆らう事に等しい。エントロピーは何事においても増大する。「覆水盆に返らず」のことわざの通り、時間は一方的に流れ続ける。ものが壊れる事はあっても、逆に復元していったりする事は絶対にない。この世界でものを組み立てる場合は、選択に選択を重ねて構築するしかない。その行為はシステマティックであり、エントロピーの増大という法則には全くそっていないどころか、むしろ逆行している。その中で、エントロピーを縮減させようとするのがシステムである。これには生命システム、情報システムも含まれる。
増大するエントロピー(エントロピーとは簡単に言えば複雑性の指標である。高エントロピーであれば複雑、低エントロピーであれば単純になる)川の流れに身を任せるという事はある意味自然な事だが、それはつまり脱システムを意味する。人間で言うならば死ぬという事である。
人間などの生命システムは形を保とうとする。これは増大するエントロピーに逆らうという事である。インクを水槽にたらせば拡散していってしまうのが普通であるが、言わば生命システムはたらされたインクが自分で拡散しないようにしている状態であり、熱力学(エントロピーは熱力学の用語)的には不自然である。
しかし人間は、2年で全細胞が入れ替わり、3時間で全く異なる粒子配列になるという。変わりつつ変わらないという器用な事をやってのける事で、自分というものを維持している。しかし、そこまでして自分を維持する必要性は不在である。
システムの定義を「選択する主体」であるとするならば、エントロピーの増大に逆らうこの行為は、非自然的とさえ言える。言うならば、世界を貫く一大法則に思いきり逆らう行為である。しかし、生命システムというものは、つまり根本的にそういうものなのである。選択をやめるという事はシステムの崩壊を意味する。
では選択とはどういう事か。不要な選択肢を捨てるという事である。必要な選択肢を選ぶ事は、同時に不要な選択肢を葬っている事になる。選択について一定の方針が定められているプログラムでは、プログラムが迷う事はない。しかし、人間が選択する場合は悩む。なぜ悩むのか。それは言ってしまえば、はっきりとした方針が定まっていないか、複数の方針がゆらぎつつせめぎあっているからである。はっきりとした方針が定まっている場合は、人は選択に悩まない。悩む時というのは、複数の方針がどれも有力に思える時である。
例えばA,B,C,の3つとも魅力的に思える場合は、有力候補を絞る事で選択するという手法がとれないため、例えばコイントスをしたり、適当に選んだりする、これは不確定性に身を委ねるという事である。選択は、我々の人生の全てと言っても過言ではない。選択によって行動を確定し、我々は動く。意識もしない日常動作はルーチンワークとして定着させる機能が備わっているが、それ以外は全て「選択と決定」である。人間の精神は言ってしまえばそれだけのものであって、そこに崇高さはない。また、選択の基準となるものは、自分に快をもたらすか、自己繁殖に適すかの2つしかない。人の精神構造は常識に反して意外なほど単純なモデルなのである。
こういった、科学哲学的に当たり前の視点で人を見ると、全ての価値が色あせて見える事に気づくだろう。
何故エントロピーは増大し続けるのかという問いに答えるには、ビッグバンまでさかのぼる必要がある。真空の中には無限のエネルギーがあるが、そのように無から生まれたこの宇宙は、爆発的に膨張し続けている。つまりこれがエントロピーの増大という事である。揺らぎがぶつかり合い、揺らぎの中で秩序(システム)が生み出される事が稀にある。それが我々であるが、一部の知的人種を除いて、大半の人間は単純なモデルとルーチンワークによって人生を過ごしているにすぎない。すなわち、自分の人生について何ら創造的ではないという事である。システマティックな人々(創造的な人々)は、ある意味で、広大な無意味さと無秩序さが広がる宇宙という環境に反旗をひるがえす一種の反逆者たちである。
確認のために、森などに出かけてみるといい。フラクタルな図形(木々と植物)と、プログラミングされたロボットのような挙動をする昆虫や動物でいっぱいである。海に出かけると、そこにあるのは揺らぎである。ここまで言えば、自然と人間が対立するのは自明の事である事がわかる。こういった科学的視点から見ると、今問題とされている「環境破壊」というのは論点がずれている事がわかる。アンチ環境の反逆者(人間)で創造的(システマティック)な人々なのだから、人間が自然を破壊するのは当たり前である。もともと、相容れない真逆の性質のものなのである。それをいまさら、自分たちが環境への反逆者だという事も忘れて環境保護うんぬんとは寝ぼけているのではなかろうか。反論・異論はこの記事内容を理解してからにして頂きたい。
なお、今回は魂のレイヤー、隠された次元等についてはふれずに、わかる範囲の事だけを話した。