2008年11月1日土曜日

評価の無意味性 / 性的ファッション考察

・評価の無意味性

永井俊哉氏によると、自分で自分を評価するという事はトートロジカルで評価にならないが、他人に承認される事はトートロジカルではないので評価になるのだという。

出典 ストーカーは何を求めて付きまとうのか
http://www.nagaitosiya.com/a/stalker.html

だがしかし、もう一歩踏み込んで、他者による自己の承認というものは、果たして本当に評価たりえるのだろうか。

自己評価をトートロジカルとするなら、この世に存在する全ての人間は、単体ではトートロジカルな評価しか下せない事になる。つまり、他人と自分はその点において同一という事になる。その同一な他人に評価される事は、自分に自分で評価を下すトートロジーと何ら変わりないものではないのか。答えは明確に是である。

つまり我々は、トートロジーな自己評価と他者評価は変わりないものだという考えを受け入れるか、もしくはその評価方法自体を超越しなければならない。

また、他者による評価が豊富な人でも満足が得られないケースが世界中に山積している事からも、他者による評価はトートロジカルで無意味に等しい事が証明されてしまっている。

この、評価から満足へと至れず、延々と評価を求めるという心理学的なループ地獄から抜け出すためには、心理学的なアプローチで対応するしか無い。その対応策とは、「自分で自分を満足させる」という事に尽きる。他人の評価に依存しても自分を満足させる事ができないのだとしたら、最終的には、自分が「これで満足だ」と満足するしかない事になる。問題は、何をもって「これで満足」と自己評価を下すかにある。

また、他者による評価も、その評価を受け取った自分がその評価をどう評価するかによって評価自体が変わってくるため、最終的には、自分の評価であれ他者の評価であれ、どちらにせよ、最終的には自分で評価を評価するしかないのである。

評価という心理のプロセス自体がトートロジカルであるがゆえに、それについて考察する本文もまたトートロジカルな繰り返し文になるところが面白くはないだろうか。

そして、評価とはすなわち、それに意味というパワーがあるか否かを判定する事でもある。無意味というレッテルを貼る場合、それは評価が良くなかったという事になり、意味があるというレッテルを貼る場合、それは評価が良かったという事になる。

意味か無意味かという評価基準は実にあいまいで、その人が意味があると思えばその対象は意味があるものになるし、その人が無意味だと思えばその対象は無意味なものになる。つまりは、個々人の思い込みや判断の仕方で、世界という対象は意味にも無意味にもなりえる。その、意味か無意味かを日々判別しなければならない不確定性の海に浮かぶのが、我々という自己意識を持った存在なのであるとも言えそうだ。

意味があるか、それとも無意味かという判断が個人にゆだねられたこの世界は、解釈や判断の仕方によって、バラ色にも灰色にもなる。ただし、意味と無意味に対する理解を超越的に知っている人にとっては、対象に意味があると意味付けする事が無意味である事がわかっているので、総じて世界は無意味という事になってしまう。超越的な理解は、時に理解したものに形而上学の悪魔を対峙させる。だが、その超越的な理解を、さらにもう一段超越した理解をする事で、形而上学の悪魔は雲散霧消し、適切な意味付けができるようになる。また、老廃物なども含めて全てに意味や価値があると結論づけた人は、精神病の領域に足を踏み入れている。

不確定な意味と無意味の海の中で、精神的な羅針盤として機能するものはただ一つしかない。それは、これまでの歴史に裏打ちされた「常識」である。ただし、評価や、意味と無意味のパラドックスに巻き込まれて精神を病まないためには、その常識を使う事ができる上で、その常識は歴史的に自然発生したならわしに過ぎないという超越的理解もしていなければならない。

・性的ファッション考察

出典 性的自己擬態の記号論
http://www.nagaitosiya.com/a/sexual_automimicry.html

各々の人生で共通かつ最大のイベントとは、強いて言うならば何であろうか。それはセックスである。セックスとは、お互いの体を密着させて局部を摩擦させる行為である。また、その際には相手の体を見る事が要求される。性器だけしかない人間に欲情できる人間など、この世に居ないからだ。欲情とは、極論、相手の全身の俯瞰によって初めて得られる。

ファッションは、性的アピールの格好の場である。その人が、誰とでもセックスしてもかまわないと思っているかどうかは、扇情的な格好で人ごみを歩けるか否かというテストで判別する事ができるだろう。

例えば、永井俊哉氏の言う擬態的な性器のアピールだけでなく、人間の性欲というものは他の動物に比べて大幅に拡張されているので、野蛮さや、可愛らしさ、知的さといった性格や、太っている、やせている、顔が端正である、ないなどの外観的特徴にまで欲情の対象が広がっている事はあえて言うまでもない事実だ。

この性的アピールを、極限まで特化させている分野とは何だろうか。それは、アニメーションや漫画やゲームといった、ビジュアルをともなったフィクション表現の中である。細かい考察はあえて省かせて頂くが、そういった意味では、コミックマーケット等は「擬態的性欲の祭典(赤信号 みんなで渡れば恐くない、の群集心理つき)」とも言えるだろう。

一方で、こういったいわゆるセックスアピールというものが嫌いな人というのは、ほとんど、あるいはまったくと言って良いほど居ない。美しい相手とのセックスが嫌いだという人というのも、おそらく存在しないだろう。また、性というもの自体がわずらしいと思う一部の僧侶のような人と違って、普通の場合、そういった性欲をわざわざ否定する意味は不在である。

そういった、あからさまなまでの現代のオタク産業についていけない人が居るという事は、すなわち、高度で広範な擬態的セックスアピールを楽しむという事についていけない人も居るという事なのである。高度で広範な擬態的セックスアピールを許容する事ができる人々は、ある意味で、性的理論が拡張され、性の概念が進化した人々だと言う事ができるかもしれない。

そういう意味では、オタクや、デザイナー、クリエイターの類いの多くはその「拡張擬態的セックスアピール」をたしなむ人々であり、ある意味でニュータイプな人類だとさえ言えるかもしれない。(ただし、それをたしなむ事が、他所から見て美しいかどうかは別問題として残る。オタクでありながら、オタクである事を自認しない層の人々が存在する理由は、主にそこに起因しているものと当方は分析する。)