私は今まで、大きく分けて、音楽、写真、映像、文章を主にデザインの手法で作ってきました。
当然、最初は試行錯誤があったわけですが、その結果、脳内に手法が構築されていき、これが「作品を量産」するための重要な道具となりました。
例えばプラモデルをたくさん作るには、金型を作らなきゃいけないじゃないですか。金型=Model というわけです。
その結果、「自分で作ったものに教えられる」という不思議な現象が起こるのです。
多忙につき時間が無いので、そのうちいくつか紹介しましょう。
たぶん、クリエイターにとっては有益なテキストでしょう。
・写真編 (高度編)
1 被写体を好きになれ。義務感で撮った写真は没になる。
好きな被写体しか撮るな。自分が好きな被写体は
自分が好きな写真になり、反復して人もそれを好きになる。
2 撮影には予定されている撮影だけでなく、自由時間を持たせろ。
特に何をするという目的の無い自由時間に偶然、必然的な
シャッターチャンスが舞い降りる可能性が多いにある。
3 直感を信じろ。シャッターを押す時は、
インスピレーションの権化となれ。自意識(エゴ)を捨てて
シャッターをきれ。
4 編集は、写真を頭の中の理想像(イデア)に近づける事だけを考えろ。
撮った段階でうまく撮れていなければ、どんなに編集しても無駄だ。
編集はあくまで、完成度を高めるための化粧にすぎない。
・写真編 (基礎編)
1 被写体の余計な部分は潔く全て捨てろ。撮りたい一つのものだけに
集中せよ。選択と集中が完成度を高める。
2 可能な限り歩き回って、整合性のある構図を頭の中で3Dで考えろ。
そしてできるだけその通りに撮れ。そのためには
アクロバットな姿勢になる事も覚悟せよ。
・映像編
1 多くの人が見るものであれば、観客が予想していない展開を考えろ。
2 心のパワーを編集力に変換して費やせ。映像制作は体力を消耗する。
3 制作へのモチベーションが無いなら、まず初めにモチベーションを作れ。
モチベーションが無ければ何も作れない。
4 全てをシステマティックに考えろ。プログラミングと同じだと思え。
5 理論的に手を抜くと、駄作になりやすい。考え抜け。
・音楽、映像共通編
安心できる、波の少ない展開の中に、人が許容できる程度の適度な大波を入れろ。それが音楽とミュージックビデオだ。
・音楽編
驚きと安心を適度に織り交ぜろ。怒りをテーマにした曲なら、怒りから自分を超越して、怒りを客観視せよ。感情の中に居ては、作曲はできない。感情を超越した理性で、あくまでも構造的にものを作れ。半分感情の中につかりつつも、理性のほうが優位の状態になれ。
以上です。ひょっとしたら誰かの参考になるかな?
しかし、われながら厳しい内容ですね。
どうしろって感じ。
もう一つ、クリエイティブ共通の重要な事を言います。
・このような厳しい条件をクリアしなければならない。そのためには精神力と体力が削られ、多くの場合それは回復できず、寿命が削られる。または病気になる。あまりクリエイターを熱心にやりすぎると、死んでしまう。
それから、これは私個人の場合ですが、
・創作は、本当の自分を知るための鏡を作る行為。
自分の作品は、自分の人間性を生々しく映し出す。
(自分の心の中を見たくない人は、何も作らないほうが良いかもしれない。)
最近UNIX哲学なるものを知ったのですが、それに通じる部分もあるかもしれません。興味のある方はクリック(Wikipedia。)
あとそれから、残酷な話ですが、
作品が成功するかの何十%は運。
作者が成功するかの何十%は運。
ただし、成功という概念自体が実は、歪んだバーチャルリアリティの上にかろうじて成り立っている歪んだ概念。よって外面的な成功という言葉に振り回される必要は無い。
何をもって、自分は成功したと自分で見なすかは、各自の考えによって決まる。成功の定義の種類は、人によって千差万別の違いがある。
最近のブログセクションに新曲あり。ダウンロードもできるよ。
(EasyMan/HogeHoge名義の101曲目の曲ですが、
私の中で重要なテーマの曲となりました。※)
※「ゆるやかな消滅」。きれいで安定した音の心地よさと同時に、
そのまま消えて行きそうな不安感を感じるような曲です。
僕らしいというか何というか。自作楽器を使用しています。
2009年3月1日日曜日
2009年1月30日金曜日
ベーシックインカムは、成立できない机上の空論
今日は、マネーと経済の話をしますが、週間こどもニュース並みに簡単に説明します。
Nakamura Programsの「格言」の中にもあります通り、お金とは権利券であり紙切れです。
つまり、やや乱暴に言うならば、「お金は、いくら印刷して一般に流通させても良い」という事になります。
これから、お金の本質について、非常に重要で、広く一般に知られるべき事を述べます。
仮に、ある国の全員がお金持ちだったとしましょう。当然、みんなは「お金持ちだから働かなくていい」と思っています。
すると、「みんなお金持ちなのに、一人もお金を使う事ができない」という状況になる事がわかります。
(つまり、いくらお金があってもサービスを受けられない。)
お金はいくら刷ってばらまいても構わないのですが、流通しているお金に見合った労働力が存在していないと、お金は、使うという事ができなくなるのです。
現状の金融経済は、こういった観点から作られていないので、しばしばインフレやデフレといった、労働力と金額のふつりあいが起こります。インフレは、労働力に対してお金が強すぎ、デフレは、労働力に対してお金が弱すぎるのです。
つまり、国の経済的に、最も理想的な状態は、
個々人や企業がお金を十分使う事ができ、国の中でお金に対する労働力がピッタリ一致している状態
という事になります。
ベーシックインカムは、こういった根本的な観点から見ると幼稚な案である事がわかります。一言で言うと、ベーシックインカムは、お金が多くなり、労働力が減少するからです。つまり、先に述べたような「お金を持ってるけど使えない」状態になる事が予想されます。
ベーシックインカムを実施すれば、労働力もアップすると性善説的に言う人たちが居ますが、私は残念ながら、どちらかと言えば性悪説支持者です。
また、昨今マスコミが騒がしい給付金については、株式日記と経済展望さんと同じく「うん十万円規模の多額の給付」が望ましいと思います。もともと、存在自体が架空の存在であるお金というものの帳尻など、いかようにでも改変して構わないと思います。(社会が正常に運営されればそれでいいではありませんか。)つまり給付金も、ゼロから産まれた給付金という事にすればいいだけの話です。
今は、労働力が多すぎてお金が足りないという状況ですから、お金を増やせば良いのです。定額給付金の額さえ大きければ、バカな法案だとは私は思いません。むしろ良いポイントを突いています。
国の中の、全金額と全労働力のバランスさえとれれば良いのですよ。小難しい事を言って人をけむに巻くのはいかがあものでしょうか。物事の本質はいつもシンプルです。
Nakamura Programsの「格言」の中にもあります通り、お金とは権利券であり紙切れです。
つまり、やや乱暴に言うならば、「お金は、いくら印刷して一般に流通させても良い」という事になります。
これから、お金の本質について、非常に重要で、広く一般に知られるべき事を述べます。
仮に、ある国の全員がお金持ちだったとしましょう。当然、みんなは「お金持ちだから働かなくていい」と思っています。
すると、「みんなお金持ちなのに、一人もお金を使う事ができない」という状況になる事がわかります。
(つまり、いくらお金があってもサービスを受けられない。)
お金はいくら刷ってばらまいても構わないのですが、流通しているお金に見合った労働力が存在していないと、お金は、使うという事ができなくなるのです。
現状の金融経済は、こういった観点から作られていないので、しばしばインフレやデフレといった、労働力と金額のふつりあいが起こります。インフレは、労働力に対してお金が強すぎ、デフレは、労働力に対してお金が弱すぎるのです。
つまり、国の経済的に、最も理想的な状態は、
個々人や企業がお金を十分使う事ができ、国の中でお金に対する労働力がピッタリ一致している状態
という事になります。
ベーシックインカムは、こういった根本的な観点から見ると幼稚な案である事がわかります。一言で言うと、ベーシックインカムは、お金が多くなり、労働力が減少するからです。つまり、先に述べたような「お金を持ってるけど使えない」状態になる事が予想されます。
ベーシックインカムを実施すれば、労働力もアップすると性善説的に言う人たちが居ますが、私は残念ながら、どちらかと言えば性悪説支持者です。
また、昨今マスコミが騒がしい給付金については、株式日記と経済展望さんと同じく「うん十万円規模の多額の給付」が望ましいと思います。もともと、存在自体が架空の存在であるお金というものの帳尻など、いかようにでも改変して構わないと思います。(社会が正常に運営されればそれでいいではありませんか。)つまり給付金も、ゼロから産まれた給付金という事にすればいいだけの話です。
今は、労働力が多すぎてお金が足りないという状況ですから、お金を増やせば良いのです。定額給付金の額さえ大きければ、バカな法案だとは私は思いません。むしろ良いポイントを突いています。
国の中の、全金額と全労働力のバランスさえとれれば良いのですよ。小難しい事を言って人をけむに巻くのはいかがあものでしょうか。物事の本質はいつもシンプルです。
2009年1月25日日曜日
魔法は必要か
「超能力は必要か」の後編だが、短く済ませる。
魔法は、悪魔の方法と書いて魔法と書く。実際、原点である中世の魔法も、悪魔との契約に基づいて力が得られる事になっている。魔法は、そもそもダークなパワーなのだ。
高度なテクノロジーは魔法と区別がつかないとはよく聴く台詞だが、こちらのほうがクリーンである。
一つだけ言える事は、筋が通っていない理不尽な便利さは、悪魔を連れて来るという事だ。つまりは、「何の代償も無しに便利な力を手に入れる事はできない」という事でもある。そして、人間のそんな身勝手で自分勝手な要求に答えるのは、たいていの場合悪魔であるという事である。
それとは対照的に、人格者にのみ備わる事がある、人を癒す力というものがある。(治癒力など。)これについては特に名前がついていないが、ホーリーな系統のパワーと見なす事ができる。しかし、こちらはよほどの事が無いと備わらない。
魔法は比較的安易に備わるが、本人にとってダメージも大きい。対して、ホーリーなパワーは、授かるのが非常に難しいが、本人にとってダメージは無いという事なのだろう。
いずれにせよ、一般の人がなんとなくイメージする単純に便利な魔法や超能力と違って、もし現実に超能力や魔法があるとしたら、かなり過酷な人生になるという事だ。
また、これは各種の分野の才能ある人たちにも同じ事が言える所がある。彼ら(彼女ら)の人生はしばしば、能力を誰かに利用されたり(例えば、安月給のクリエイターをさせられる等)、怪しい所に勧誘されたり、能力を使いすぎて精神を病んだりする事が多い。人生を才能に振り回されてしんどい思いをするというのも、ありふれた話だ。
また、才能がどうして出現するのかについては、過去世で努力した結果と私は解釈する。才能は努力100%でできているのだ。もしも、筋の通っていない理不尽な才能、すなわち努力の積み重ねの結果ではない才能があるとすれば、魔法の例と同様に、何らかのペナルティが同時に課せられていると考えるべきだろう。
つまり、能力に振り回されてしんどい思いをしたく無ければ、能力を封印してしまう事しかない。(意図的に、使わないようにする。)意外に、こういう「実はすごい能力があるけど、それでひどい目にあったから、それを隠して普通の人をしている」人というのは、昔も今もたくさん存在している。
ホーリーなパワーは、他人への無条件の奉仕などによって、ごくまれに授けられる事があるようだが、あくまでもそれは結果的にであって、パワーが欲しいから他人に奉仕するというのでは、間違っても授けられないだろう。
魔法は、悪魔の方法と書いて魔法と書く。実際、原点である中世の魔法も、悪魔との契約に基づいて力が得られる事になっている。魔法は、そもそもダークなパワーなのだ。
高度なテクノロジーは魔法と区別がつかないとはよく聴く台詞だが、こちらのほうがクリーンである。
一つだけ言える事は、筋が通っていない理不尽な便利さは、悪魔を連れて来るという事だ。つまりは、「何の代償も無しに便利な力を手に入れる事はできない」という事でもある。そして、人間のそんな身勝手で自分勝手な要求に答えるのは、たいていの場合悪魔であるという事である。
それとは対照的に、人格者にのみ備わる事がある、人を癒す力というものがある。(治癒力など。)これについては特に名前がついていないが、ホーリーな系統のパワーと見なす事ができる。しかし、こちらはよほどの事が無いと備わらない。
魔法は比較的安易に備わるが、本人にとってダメージも大きい。対して、ホーリーなパワーは、授かるのが非常に難しいが、本人にとってダメージは無いという事なのだろう。
いずれにせよ、一般の人がなんとなくイメージする単純に便利な魔法や超能力と違って、もし現実に超能力や魔法があるとしたら、かなり過酷な人生になるという事だ。
また、これは各種の分野の才能ある人たちにも同じ事が言える所がある。彼ら(彼女ら)の人生はしばしば、能力を誰かに利用されたり(例えば、安月給のクリエイターをさせられる等)、怪しい所に勧誘されたり、能力を使いすぎて精神を病んだりする事が多い。人生を才能に振り回されてしんどい思いをするというのも、ありふれた話だ。
また、才能がどうして出現するのかについては、過去世で努力した結果と私は解釈する。才能は努力100%でできているのだ。もしも、筋の通っていない理不尽な才能、すなわち努力の積み重ねの結果ではない才能があるとすれば、魔法の例と同様に、何らかのペナルティが同時に課せられていると考えるべきだろう。
つまり、能力に振り回されてしんどい思いをしたく無ければ、能力を封印してしまう事しかない。(意図的に、使わないようにする。)意外に、こういう「実はすごい能力があるけど、それでひどい目にあったから、それを隠して普通の人をしている」人というのは、昔も今もたくさん存在している。
ホーリーなパワーは、他人への無条件の奉仕などによって、ごくまれに授けられる事があるようだが、あくまでもそれは結果的にであって、パワーが欲しいから他人に奉仕するというのでは、間違っても授けられないだろう。
超能力は必要か
I'm EasyMan音楽セクションのMySpaceを
別ウィンドゥで開いて、新曲のDouble Leadでも
聴きながら読んでみてはどうだろうか。
フィクションの世界では、よく超能力やそれに類する能力が描かれる。その観客は普通、「そんなのはあり得ない」と文句を言ったりはしない。
Mixiニュースによると、「欲しい特殊能力ランキング」の一位はテレポーテーションだったという。
この事をふまえて、そもそも人間に超能力は必要なのかを少し考えてみたい。
テレポーテーションが一位になるというのは納得できる。単純に便利だからである。通勤通学も一瞬で、交通費もかからない。テレポーテーションに類似した能力としてアポーツ(物の取り寄せ)があるが、これが使えれば、忘れ物の心配をしなくて良くなりそうで、これまた便利だ。特にこれといった問題の無い能力に思える。ただ、万が一テレポートに失敗するとどうなるのかという疑問は残る。もし、自分が行った事のある場所でなくてもテレポートできるなら、特殊軍事機関などに誘拐、もしくは勧誘されて利用される可能性が高い。
超能力を大きく分けると、「テレポート」「サイコキネシス」「テレパシー/リーディング」の3系統があるが、テレパシーやリーディングは若干問題のある能力と思える。人は誰しも、やましい事を考える事があるものだ。周囲のそれがわかってしまうテレパスは、多くの場合精神的な負担が大きくなる事が懸念される。この対策としては、悪性の思念に耐性をつけるしかないのであるが、例えばその過程で当人の性格が歪んでしまう可能性がある。もし高度なテレパスが、繊細で傷つきやすい人であれば、精神を病んだり、自殺したりする可能性が高い。また、諜報機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。
そして、最も問題があると思われる能力が「サイコキネシス」である。ここでは、手を使わずに、つまり物理的な干渉をせずに、物理的に物体に干渉する、または何らかのエネルギーを放射する事を指す。よくフィクションであるように、超人的な力を発揮するサイコキノ(サイコキネシス能力者の呼び名)は、その力を発揮するシチュエーションが以下の二通りに大別できる。
1・人格者のサイコキノの場合は、しばしば、悪の組織からの自衛のために力を行使する。正義を掲げる組織の一員であったりする事が多い。
2・人格がよろしくないサイコキノの場合は、しばしば、自分の暴力的欲望のために力を行使する。法律の崩壊した世界観である事が多い。
超能力者、つまりエスパーは、その人本人が持つ人格によって、非常に危険で迷惑な存在にもなれば、便利な兵器にもなる。こと物理的な強い干渉力のあるサイコキノが、例えば性格に問題のある子供であったりしたらどうなるだろうか。些細な事でいちいち家を吹き飛ばされたり、ケンカになった時に相手が絶命してしまったりしかねない。ドラゴンボールのような戦争まがいの事をされては、一般市民的にはたまったものではない。何事にせよ、争わずに済むのがベストのはずである。
サイコキノも、見た目は普通の人間なので、これまた、軍事機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。利用価値は絶大と思われる。
あなたがもし超能力者であれば、以上のような理由から、能力を隠して生活したほうがいいという事になる。下手をすれば、能力ゆえに、一生能力を誰かに利用されて暮らさなければならなくなる可能性が高い。また本人にグレてもらっては、非常に危険でもある。サイコキノは、おだてて使わなくてはならない存在なのだ。
もう一つの最大の疑問がある。超能力のパワーソースは、どこから来ているのかという事である。実は、テレポートに関しては説明がつく。要は座標転移をするという事なので、エネルギーはさほど必要としないものと思われる。
テレパシーも、エネルギーにはあまり関係が無い。
しかし、サイコキネシスはその物理的エネルギーがどこから来ているのか不明である。少なくとも、摂取カロリーというわけでは無さそうだ。エネルギー保存の法則に従って、「ここではないどこか他の場所から」エネルギーを調達しているという事になる。
海外のGoogleの検索ワード1位になったドラゴンボールでは、これについて有名な描写がある。元気玉を生成する際に、「地球のみんな」から元気をわけてもらうというものである。要は、生体エネルギーを集めて電気的エネルギーに変換しているのではないか?
一方、「なのは」では、音声認識で操作できる高度な「デバイス」にひたすら頼りっきりで壊れたら修理しなくてはいけない、という事になっている。筆者の勝手な推測としては、あのデバイスはSun Rayのような一種のシンクライアントで、エネルギーは管理局の発電所あたりから転送されているのではないかと推測する。(デバイス単体でエネルギーをどこからともなく集める事は不可能だと思うから。)Sun Rayの事を調べてもらえば納得してもらえると思う。
また我々はなぜ、フィクション上の超能力を生理的な違和感を覚えずに鑑賞できるのだろうか?絶対にあり得ないと解っている事なら、ばかばかしくて見る気も起きないはずである。
そして最大の問題に言及する。実際には、派手な超能力を持った人というのは居ないという事である。サバンに関しては、一部の脳機能が非常によくできているというだけで、超能力ではないものとする。エスパー達がもし普通に居る程度の確率で存在したら、超能力者に関する法律もできているだろうし、超能力を用いた社会の混乱や犯罪も絶えないだろう。極論、我々の生活に超能力は必要ないのだ。確かに、最初のうちは生活上で多少便利な面はあるかもしれないが、誘拐、利用されたりする危険のほうが高いからである。ESPは、エスパー本人の人生に混乱をもたらし、周囲にも混乱をもたらす力だと言っても過言ではないかもしれない。本当に「スプーン折り」ができる日本のある人は、ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」で「スプーンと一緒に人生も曲がった」という趣旨の発言をしている。
しかし実際には、現実にそういった派手な超能力者は居ない。某国の超能力機関の有能なエスパーでさえ、金属のさやに入った紙の文字を、テレビ番組で読み間違えたりしている程度なのだから。スプーンを触らずに折る人はすごいが、干渉力としては危険とはほど遠い、微々たるものに思える。
仮に強力なエスパーが特定の機関などに属しているとしても、その力を使う所は必ず誰かに目撃などされるものであり、仮に目撃した人を全員証拠隠滅のために葬っているのだとしても、今まで全く情報が漏れなかったというのはほとんど奇跡に近い。つまり、そういう事はおそらく無いのである。
(当サイトの、私のスプーン曲げ映像も、実は超能力ではなく、物理的なコツで、あっさり曲げているように見せかけて、力で曲げているにすぎない。)
次回は、「中世における魔法」について、続けて少し考える。
別ウィンドゥで開いて、新曲のDouble Leadでも
聴きながら読んでみてはどうだろうか。
フィクションの世界では、よく超能力やそれに類する能力が描かれる。その観客は普通、「そんなのはあり得ない」と文句を言ったりはしない。
Mixiニュースによると、「欲しい特殊能力ランキング」の一位はテレポーテーションだったという。
この事をふまえて、そもそも人間に超能力は必要なのかを少し考えてみたい。
テレポーテーションが一位になるというのは納得できる。単純に便利だからである。通勤通学も一瞬で、交通費もかからない。テレポーテーションに類似した能力としてアポーツ(物の取り寄せ)があるが、これが使えれば、忘れ物の心配をしなくて良くなりそうで、これまた便利だ。特にこれといった問題の無い能力に思える。ただ、万が一テレポートに失敗するとどうなるのかという疑問は残る。もし、自分が行った事のある場所でなくてもテレポートできるなら、特殊軍事機関などに誘拐、もしくは勧誘されて利用される可能性が高い。
超能力を大きく分けると、「テレポート」「サイコキネシス」「テレパシー/リーディング」の3系統があるが、テレパシーやリーディングは若干問題のある能力と思える。人は誰しも、やましい事を考える事があるものだ。周囲のそれがわかってしまうテレパスは、多くの場合精神的な負担が大きくなる事が懸念される。この対策としては、悪性の思念に耐性をつけるしかないのであるが、例えばその過程で当人の性格が歪んでしまう可能性がある。もし高度なテレパスが、繊細で傷つきやすい人であれば、精神を病んだり、自殺したりする可能性が高い。また、諜報機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。
そして、最も問題があると思われる能力が「サイコキネシス」である。ここでは、手を使わずに、つまり物理的な干渉をせずに、物理的に物体に干渉する、または何らかのエネルギーを放射する事を指す。よくフィクションであるように、超人的な力を発揮するサイコキノ(サイコキネシス能力者の呼び名)は、その力を発揮するシチュエーションが以下の二通りに大別できる。
1・人格者のサイコキノの場合は、しばしば、悪の組織からの自衛のために力を行使する。正義を掲げる組織の一員であったりする事が多い。
2・人格がよろしくないサイコキノの場合は、しばしば、自分の暴力的欲望のために力を行使する。法律の崩壊した世界観である事が多い。
超能力者、つまりエスパーは、その人本人が持つ人格によって、非常に危険で迷惑な存在にもなれば、便利な兵器にもなる。こと物理的な強い干渉力のあるサイコキノが、例えば性格に問題のある子供であったりしたらどうなるだろうか。些細な事でいちいち家を吹き飛ばされたり、ケンカになった時に相手が絶命してしまったりしかねない。ドラゴンボールのような戦争まがいの事をされては、一般市民的にはたまったものではない。何事にせよ、争わずに済むのがベストのはずである。
サイコキノも、見た目は普通の人間なので、これまた、軍事機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。利用価値は絶大と思われる。
あなたがもし超能力者であれば、以上のような理由から、能力を隠して生活したほうがいいという事になる。下手をすれば、能力ゆえに、一生能力を誰かに利用されて暮らさなければならなくなる可能性が高い。また本人にグレてもらっては、非常に危険でもある。サイコキノは、おだてて使わなくてはならない存在なのだ。
もう一つの最大の疑問がある。超能力のパワーソースは、どこから来ているのかという事である。実は、テレポートに関しては説明がつく。要は座標転移をするという事なので、エネルギーはさほど必要としないものと思われる。
テレパシーも、エネルギーにはあまり関係が無い。
しかし、サイコキネシスはその物理的エネルギーがどこから来ているのか不明である。少なくとも、摂取カロリーというわけでは無さそうだ。エネルギー保存の法則に従って、「ここではないどこか他の場所から」エネルギーを調達しているという事になる。
海外のGoogleの検索ワード1位になったドラゴンボールでは、これについて有名な描写がある。元気玉を生成する際に、「地球のみんな」から元気をわけてもらうというものである。要は、生体エネルギーを集めて電気的エネルギーに変換しているのではないか?
一方、「なのは」では、音声認識で操作できる高度な「デバイス」にひたすら頼りっきりで壊れたら修理しなくてはいけない、という事になっている。筆者の勝手な推測としては、あのデバイスはSun Rayのような一種のシンクライアントで、エネルギーは管理局の発電所あたりから転送されているのではないかと推測する。(デバイス単体でエネルギーをどこからともなく集める事は不可能だと思うから。)Sun Rayの事を調べてもらえば納得してもらえると思う。
また我々はなぜ、フィクション上の超能力を生理的な違和感を覚えずに鑑賞できるのだろうか?絶対にあり得ないと解っている事なら、ばかばかしくて見る気も起きないはずである。
そして最大の問題に言及する。実際には、派手な超能力を持った人というのは居ないという事である。サバンに関しては、一部の脳機能が非常によくできているというだけで、超能力ではないものとする。エスパー達がもし普通に居る程度の確率で存在したら、超能力者に関する法律もできているだろうし、超能力を用いた社会の混乱や犯罪も絶えないだろう。極論、我々の生活に超能力は必要ないのだ。確かに、最初のうちは生活上で多少便利な面はあるかもしれないが、誘拐、利用されたりする危険のほうが高いからである。ESPは、エスパー本人の人生に混乱をもたらし、周囲にも混乱をもたらす力だと言っても過言ではないかもしれない。本当に「スプーン折り」ができる日本のある人は、ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」で「スプーンと一緒に人生も曲がった」という趣旨の発言をしている。
しかし実際には、現実にそういった派手な超能力者は居ない。某国の超能力機関の有能なエスパーでさえ、金属のさやに入った紙の文字を、テレビ番組で読み間違えたりしている程度なのだから。スプーンを触らずに折る人はすごいが、干渉力としては危険とはほど遠い、微々たるものに思える。
仮に強力なエスパーが特定の機関などに属しているとしても、その力を使う所は必ず誰かに目撃などされるものであり、仮に目撃した人を全員証拠隠滅のために葬っているのだとしても、今まで全く情報が漏れなかったというのはほとんど奇跡に近い。つまり、そういう事はおそらく無いのである。
(当サイトの、私のスプーン曲げ映像も、実は超能力ではなく、物理的なコツで、あっさり曲げているように見せかけて、力で曲げているにすぎない。)
次回は、「中世における魔法」について、続けて少し考える。
2009年1月10日土曜日
人間は水ぶくれの一種である
また「僕のうざい側面」である「哲学モード」で、僕の好きな長文打ちをやってみよう。先ほどの「生命体についての考察」の後付け。
でもこれが無いと創造的になれない、これが創造性の根幹を成している事も事実だから面倒くさい。
熱いものに触って、指先に大きめの水ぶくれを創ってしまった事がある。その水ぶくれを見て触っていると、このような感想を持った。「ぶよぶよしていて、まるで、自分の上にもう一つ自分が出来たようだ。」
その水ぶくれは、破けて水が出て、そのうちなくなった。これを見てこう思った。「まるで、ホラーで血がドバッと出るシーンのようだ。」
総じてこう思った。「人体とは、一種の水ぶくれと定義する事ができる。"ホラーで血がドバッと出て怖いのは、人間が水風船でできた血の塊だという事を知るからだ"とどこかで聴いた事があるが、つまりはそういう事なのだ。」と。
「自己組織化と自己増殖化を基本的傾向とする、サイバネティックスでニューラルな知性を持った水ぶくれ」とでも言えばいいのだろうか。水ぶくれの一種としては、ずいぶん無駄に複雑なシロモノで、当方としては色々と迷惑を被っている。
そういう意味では、植物や昆虫や建築のほうがずいぶんとシンプルで、かつ多様性があって美しいので、僕はそういう写真を好んで撮る傾向がある。また、MacBook DPのトップ記事にもある通り、人は基本的に撮らない。なぜなら撮りたくないからだ。
人は、
出す方
汗をかく
スモーラートイレに行く
様々な汁を出す
入るほう
水および水を含むものを摂取する
というように、組織化した水ぶくれである体を維持するために、絶えず水の入出力を行っている。このサイクルを科学的に算出し、適切な「身体水循環」を行えば、気分もだいぶ良くなるのではないだろうか。日頃身につけているiPodやiPhoneなんかでできないだろうか。Nike+みたいにさ。専門家が理論を作ればできると思うよ。
また、火葬を見た事のある人ならわかるだろうが、人間の身体というものは、焼けば骨を残してきれいになくなる。
骨も、(遺体遺棄にあたるのでやってはいけないが)土に埋めればやがて土に還る。
くどいようだが、人間とはつまりそれ自体、特別な存在ではないのである。その人がどんな人かは、正直言ってこういう側面から見るとあまり変わりない事になる。
でもこれが無いと創造的になれない、これが創造性の根幹を成している事も事実だから面倒くさい。
熱いものに触って、指先に大きめの水ぶくれを創ってしまった事がある。その水ぶくれを見て触っていると、このような感想を持った。「ぶよぶよしていて、まるで、自分の上にもう一つ自分が出来たようだ。」
その水ぶくれは、破けて水が出て、そのうちなくなった。これを見てこう思った。「まるで、ホラーで血がドバッと出るシーンのようだ。」
総じてこう思った。「人体とは、一種の水ぶくれと定義する事ができる。"ホラーで血がドバッと出て怖いのは、人間が水風船でできた血の塊だという事を知るからだ"とどこかで聴いた事があるが、つまりはそういう事なのだ。」と。
「自己組織化と自己増殖化を基本的傾向とする、サイバネティックスでニューラルな知性を持った水ぶくれ」とでも言えばいいのだろうか。水ぶくれの一種としては、ずいぶん無駄に複雑なシロモノで、当方としては色々と迷惑を被っている。
そういう意味では、植物や昆虫や建築のほうがずいぶんとシンプルで、かつ多様性があって美しいので、僕はそういう写真を好んで撮る傾向がある。また、MacBook DPのトップ記事にもある通り、人は基本的に撮らない。なぜなら撮りたくないからだ。
人は、
出す方
汗をかく
スモーラートイレに行く
様々な汁を出す
入るほう
水および水を含むものを摂取する
というように、組織化した水ぶくれである体を維持するために、絶えず水の入出力を行っている。このサイクルを科学的に算出し、適切な「身体水循環」を行えば、気分もだいぶ良くなるのではないだろうか。日頃身につけているiPodやiPhoneなんかでできないだろうか。Nike+みたいにさ。専門家が理論を作ればできると思うよ。
また、火葬を見た事のある人ならわかるだろうが、人間の身体というものは、焼けば骨を残してきれいになくなる。
骨も、(遺体遺棄にあたるのでやってはいけないが)土に埋めればやがて土に還る。
くどいようだが、人間とはつまりそれ自体、特別な存在ではないのである。その人がどんな人かは、正直言ってこういう側面から見るとあまり変わりない事になる。
生命体についての考察
本論では、あくまでも科学哲学の観点から、生命体を考察する。
性とは、文字通り、生命を持つ個体の持つ基本的性質の違いである。性別が男性である場合と、女性である場合とでは、肉体から人格に至るまで違いが認められており、例えば男性であれば男性器があり、肉体は体毛が多くひげがよく生え、女性に比べて筋肉質であるなどの共通する特徴が見られる。
しかし、性別の無い生物というものも存在する。その多くは原始生物、すなわちバクテリアや微生物といったものである。
無性の生物も、有性の生物も、一代の生命体としての最終目標は同じである。すなわち、次世代の子孫を作るという目標である。これを当方では、「終わりなきバトンリレー」と呼称する事にしている。その種自体が滅びない限りにおいて、生きるというバトンを次世代、つまり子孫に渡して自分が死ぬ、そのバトンを渡された次世代が次次世代を産み、次次次世代にバトンを渡す、という事を理論上は永遠に繰り返すからである。当方ではこれをさらに「無限ループ逃避活動」とも呼称する。人生を、バトンを渡す事に精一杯で、自分の人生を生きようとしないまま、次世代にバトンを渡してしまう事はよくある事で、さらにその次世代も、自分の人生を生きないままに、バトンを渡す事に夢中になってバトンを次に渡してしまう。
そもそも、何のために生命体は存在しているのかという疑問がここに呈されるが、性にまつわる人間の基本構造を見る限り、「バトンを渡す」という事に最大の重点が置かれている事には、もはや疑問の余地は無い。人間は犬や猫と違っていつでも発情期であり、その思考内容のかなりのパーセンテージは「性、食、生命維持」に関する事であり、それは微生物と何ら変わりない。
もし、生命の設計者が、自分自身で、生命の存在理由を見いだせないまま生命を作ったのだとしたら、永遠に同じ個体が生きるのではつまらないので、一定期間で個体は死に、子孫という形でひたすら次にバトンを渡し続けるという構造にした、という事は考えられないだろうか。私は十分あり得る話だと思う。つまり我々は、生命のクリエイターが出せなかった答えを、何千代かかっても出せないという生命であり、言わば哀れな失敗作なのである。その失敗作がどんなに頭をひねった所で、生命のクリエイターが出せなかった答えである「生命の存在理由」など、わかろうはずも無い。また、性という生命の根本原理に逆らって生きるという事は、生命体であるが故に非常な苦痛を伴う。
故に、我々は生命体とは神の失敗作であるという真実を早期かつ素直に認め、生命の基本原理にのっとって生きる事が得策であるという事になる。
ここで大切なのは、生命の存在理由などといった、大きな哲学的命題を無視する事である。我々は所詮、失敗作の生まれであるから、失敗作として生きれば良いだけの話である。言い方を変えれば、足るを知れという事である。
また、交わりと自己増殖という基本モデルは、性のみならず人間の諸活動全てに見いだす事ができる。例えば、有名になりたいという願望は、自分と言う概念を多くの他人に認識させたいという意味で、自己増殖的である。自分の製品や作品を世界に認めさせ、流通させたいという欲望もまた、極めて自己増殖的である。このように、人間という存在は、高度な事をしているように見えて、実は意外なほどに微生物のレベルから、基本的には何も進歩していないのである。家電製品やメディアが進歩していく様子は、生命体の進化に似ている側面があるが、これもまた微生物の根本原理から抜け出せていない。
このような観点からは、むしろ、他の種や自然風景、植物といった種のほうが、むしろ微生物から進歩していると言える。君の行動モデルは微生物と同じと言われて、人間はもっと高度だと言いたくなる人は多いだろうが、自分の今までの活動を、あくまで科学哲学的に見直してみてほしい。本当にそう言い切れるだろうか?
多くの人の性質は、原始的である。ゆえに、ある人が多くの人に理解されるという事は、その人が原始的であるという事になる。さらに、何かが世界的に理解されるという事は、その何かが原始的に筋が通っているだけ、という事になる。デザインや設計という行為もまたしかり、である。偉大なクリエイターも著名人も、実は何ら創造的ではなく、単に生命の基本原理に忠実な、生命の基本原理の忠実な奴隷であるだけなのである。
つまり、「性、食、生命維持」というこの3つを全員で自覚し、それに特化した社会を構築すれば、基本的にはいち生命体群として幸福が約束されるのである。残念ながら、我々は意外なほど、それらで満足できるように設計されているものなのだ。
EOF
性とは、文字通り、生命を持つ個体の持つ基本的性質の違いである。性別が男性である場合と、女性である場合とでは、肉体から人格に至るまで違いが認められており、例えば男性であれば男性器があり、肉体は体毛が多くひげがよく生え、女性に比べて筋肉質であるなどの共通する特徴が見られる。
しかし、性別の無い生物というものも存在する。その多くは原始生物、すなわちバクテリアや微生物といったものである。
無性の生物も、有性の生物も、一代の生命体としての最終目標は同じである。すなわち、次世代の子孫を作るという目標である。これを当方では、「終わりなきバトンリレー」と呼称する事にしている。その種自体が滅びない限りにおいて、生きるというバトンを次世代、つまり子孫に渡して自分が死ぬ、そのバトンを渡された次世代が次次世代を産み、次次次世代にバトンを渡す、という事を理論上は永遠に繰り返すからである。当方ではこれをさらに「無限ループ逃避活動」とも呼称する。人生を、バトンを渡す事に精一杯で、自分の人生を生きようとしないまま、次世代にバトンを渡してしまう事はよくある事で、さらにその次世代も、自分の人生を生きないままに、バトンを渡す事に夢中になってバトンを次に渡してしまう。
そもそも、何のために生命体は存在しているのかという疑問がここに呈されるが、性にまつわる人間の基本構造を見る限り、「バトンを渡す」という事に最大の重点が置かれている事には、もはや疑問の余地は無い。人間は犬や猫と違っていつでも発情期であり、その思考内容のかなりのパーセンテージは「性、食、生命維持」に関する事であり、それは微生物と何ら変わりない。
もし、生命の設計者が、自分自身で、生命の存在理由を見いだせないまま生命を作ったのだとしたら、永遠に同じ個体が生きるのではつまらないので、一定期間で個体は死に、子孫という形でひたすら次にバトンを渡し続けるという構造にした、という事は考えられないだろうか。私は十分あり得る話だと思う。つまり我々は、生命のクリエイターが出せなかった答えを、何千代かかっても出せないという生命であり、言わば哀れな失敗作なのである。その失敗作がどんなに頭をひねった所で、生命のクリエイターが出せなかった答えである「生命の存在理由」など、わかろうはずも無い。また、性という生命の根本原理に逆らって生きるという事は、生命体であるが故に非常な苦痛を伴う。
故に、我々は生命体とは神の失敗作であるという真実を早期かつ素直に認め、生命の基本原理にのっとって生きる事が得策であるという事になる。
ここで大切なのは、生命の存在理由などといった、大きな哲学的命題を無視する事である。我々は所詮、失敗作の生まれであるから、失敗作として生きれば良いだけの話である。言い方を変えれば、足るを知れという事である。
また、交わりと自己増殖という基本モデルは、性のみならず人間の諸活動全てに見いだす事ができる。例えば、有名になりたいという願望は、自分と言う概念を多くの他人に認識させたいという意味で、自己増殖的である。自分の製品や作品を世界に認めさせ、流通させたいという欲望もまた、極めて自己増殖的である。このように、人間という存在は、高度な事をしているように見えて、実は意外なほどに微生物のレベルから、基本的には何も進歩していないのである。家電製品やメディアが進歩していく様子は、生命体の進化に似ている側面があるが、これもまた微生物の根本原理から抜け出せていない。
このような観点からは、むしろ、他の種や自然風景、植物といった種のほうが、むしろ微生物から進歩していると言える。君の行動モデルは微生物と同じと言われて、人間はもっと高度だと言いたくなる人は多いだろうが、自分の今までの活動を、あくまで科学哲学的に見直してみてほしい。本当にそう言い切れるだろうか?
多くの人の性質は、原始的である。ゆえに、ある人が多くの人に理解されるという事は、その人が原始的であるという事になる。さらに、何かが世界的に理解されるという事は、その何かが原始的に筋が通っているだけ、という事になる。デザインや設計という行為もまたしかり、である。偉大なクリエイターも著名人も、実は何ら創造的ではなく、単に生命の基本原理に忠実な、生命の基本原理の忠実な奴隷であるだけなのである。
つまり、「性、食、生命維持」というこの3つを全員で自覚し、それに特化した社会を構築すれば、基本的にはいち生命体群として幸福が約束されるのである。残念ながら、我々は意外なほど、それらで満足できるように設計されているものなのだ。
EOF
2008年11月19日水曜日
ガンダムを斬る
(2008/11/19 6時)
こほん。
以下は、エセSF考察の世界ですから気にしないでください。
簡単にいうと、こういう事です。
まずは前置き。
疑問1
・ひんぱんに使用される「ビーム兵器」は実在するのか?
ビームライフルって作れるのか?
答え1
・一応実現はしている。ただし、非常に大型で重量もあり、大量の電力を一度に消費するので、電源部分が強烈な出力でなければいけない。冷却機構も必要である。ある程度小型にして、例えば地球をピンポイントで狙い打つ事も可能とされているが、一発撃つのに、準備に年単位の時間がかかる。
カートリッジ式ビームライフルのような大きさと形状では、相当に技術的ブレイクスルーが無いと実現できないだろう。既存の技術で作るのでは、情けないくらいの破壊力しか実現できないはずだ。
疑問2 宇宙空間を自由に動けるの?
一応可能です。月へも行っていますから。ただし、月へ行って帰ってくる場合、基本的には一定方向への一直線コースのみです。軌道修正は微弱にしかできません。あれだけフレキシブルに動き回るには、前提としてかなり多くの方向にブースターが必要になり、ガンダムのブースターの個数は明らかに足りていません。あれでは、制御に失敗してくるくる回ったり、あらぬ方向へ飛んで行く可能性があります。もちろん、その制御技術のソフトウェア的なハードルも高いです。というか、手の部分に人を乗せて急に加速すると、その人は落ちて死んじゃいますから。というか、逆方向などに急加速するとパイロットはブラックアウトして即死ですから。ガンダムはGに寛容ですね。
疑問3 なぜガンダムは燃料切れにならないの?
ビルをやすやすと破壊して、しかも無傷である所を見ると、大変な大出力である事がわかりますが、それだけの出力を出せるデバイスというと、小型発電所並みです。それを高さ14メートルほどの機体に搭載する事は不可能です。サイズを小さくすれば、歩くのがやっとでしょう。この点に限定して言えば、エヴァのほうが若干リアルな描写と言えます。
ガンダムファンの皆さん、ごめんなさい。
これから、ガンダムがサイエンス「フィクション(SF)」である事が明らかになります。
仮に、宇宙戦で、MSを撃破したとしましょう。スペースデブリを知っていますか?砕かれた機体は、大小さまざまなデブリとなり、それ自体が想像を絶する破壊力を持ちます。これが無数の方向にチ飛び散るわけですから、一度撃って当たれば、味方も敵も無傷ではすまないか、最悪の場合全滅するでしょう。
熱力学的、エネルギー保存の法則を考えてみてください。言わば、機体に打ち込まれたビームが、破壊されて飛び散るデブリになって、それが無数に飛び散るのです。だから一発でも撃つと怖いんですよ。しかもデブリは、無重力だから、理論上は永久にそのままのスピードで進んでいきます。重力があればいつかわ落下しますけどね。
つまり、結論から言ってしまうと、宇宙空間とは、あれだけ派手に動きまわって撃ちまくれる空間ではないという事なのですよ。
・でもでも、じゃあ艦隊戦ならできるでしょ?
おやおや、これは他のSFのファンにまで嫌われるかもしれません。確かにできますが、もう一つの決定的な事を言います。
ビーム兵器は、光の速度で進行する兵器です。一秒間で地球を7回半だそうですから、見えた時には当たっているのです。だから、ビームの光が見えてから「ぶつかる、回避」という事は不可能なのです。しかもコンピュータ制御ですから、計算に誤差やミスが無い限り百発百中で命中します。ビーム兵器に狙われたらそこで終わりだと考えてください。艦隊レベルであれば、貫通力も絶大です。
また、ジムなどはどこに当たっても爆発しますが、エネルギー系のユニットでなければ、たいていの場合爆発しないのではないでしょうか。それでは絵的に面白くないのでしょうかね。
つまり、「小惑星などを盾として見えないようにし、精密な計算で大出力一発撃ち」で終了、というのが本当のビーム兵器による艦隊戦なのではないか?と思います。
ええとですね、つまり兵器同士による「打ち合い」や「戦闘状態が一定時間続く」という状況は、現実的にはあまり無い事なのですよ。だから、ガンダム的戦闘はそもそも成立しないと推測できるわけです。
いやできるんだ、ガンダムにケチをつけるなという人が居たのでは、単なる水かけ論になってしまいそうですね。
地上での運動については、重力がありますから、機械的には大きくなるほど難しいわけです。人間相手なんかだと心理的威圧効果はあるでしょうけどね。格闘技なんかみたいに、必ずしも大きいから強い、というわけでもないのですよ。3〜4メートル級なら作れるかもしれませんがね。
えーと、僕は確かに昔トミノさんに喧嘩を売りましたが、今見てみると、ガンダムの人間関係は・・・・テーマとしてはよくできてると思いますよ。逆襲のシャアなんか特に。あれは、「見解の異なる2人のニュータイプがぶつかりあう話」だと思いますよ。
ただ、多くの人には、男性的な攻撃欲求のを具現化した戦争映像として消費されてしまっているのではないですかね。「戦闘シーン中毒」と診断できる人って、アニメ見てる人で多そうですよ。(いや、そういう病名ないけど、病名なんざ作ればある事になるからさ。)
ああ、長文撃つのもけっこうしんどいです。
こほん。
以下は、エセSF考察の世界ですから気にしないでください。
簡単にいうと、こういう事です。
まずは前置き。
疑問1
・ひんぱんに使用される「ビーム兵器」は実在するのか?
ビームライフルって作れるのか?
答え1
・一応実現はしている。ただし、非常に大型で重量もあり、大量の電力を一度に消費するので、電源部分が強烈な出力でなければいけない。冷却機構も必要である。ある程度小型にして、例えば地球をピンポイントで狙い打つ事も可能とされているが、一発撃つのに、準備に年単位の時間がかかる。
カートリッジ式ビームライフルのような大きさと形状では、相当に技術的ブレイクスルーが無いと実現できないだろう。既存の技術で作るのでは、情けないくらいの破壊力しか実現できないはずだ。
疑問2 宇宙空間を自由に動けるの?
一応可能です。月へも行っていますから。ただし、月へ行って帰ってくる場合、基本的には一定方向への一直線コースのみです。軌道修正は微弱にしかできません。あれだけフレキシブルに動き回るには、前提としてかなり多くの方向にブースターが必要になり、ガンダムのブースターの個数は明らかに足りていません。あれでは、制御に失敗してくるくる回ったり、あらぬ方向へ飛んで行く可能性があります。もちろん、その制御技術のソフトウェア的なハードルも高いです。というか、手の部分に人を乗せて急に加速すると、その人は落ちて死んじゃいますから。というか、逆方向などに急加速するとパイロットはブラックアウトして即死ですから。ガンダムはGに寛容ですね。
疑問3 なぜガンダムは燃料切れにならないの?
ビルをやすやすと破壊して、しかも無傷である所を見ると、大変な大出力である事がわかりますが、それだけの出力を出せるデバイスというと、小型発電所並みです。それを高さ14メートルほどの機体に搭載する事は不可能です。サイズを小さくすれば、歩くのがやっとでしょう。この点に限定して言えば、エヴァのほうが若干リアルな描写と言えます。
ガンダムファンの皆さん、ごめんなさい。
これから、ガンダムがサイエンス「フィクション(SF)」である事が明らかになります。
仮に、宇宙戦で、MSを撃破したとしましょう。スペースデブリを知っていますか?砕かれた機体は、大小さまざまなデブリとなり、それ自体が想像を絶する破壊力を持ちます。これが無数の方向にチ飛び散るわけですから、一度撃って当たれば、味方も敵も無傷ではすまないか、最悪の場合全滅するでしょう。
熱力学的、エネルギー保存の法則を考えてみてください。言わば、機体に打ち込まれたビームが、破壊されて飛び散るデブリになって、それが無数に飛び散るのです。だから一発でも撃つと怖いんですよ。しかもデブリは、無重力だから、理論上は永久にそのままのスピードで進んでいきます。重力があればいつかわ落下しますけどね。
つまり、結論から言ってしまうと、宇宙空間とは、あれだけ派手に動きまわって撃ちまくれる空間ではないという事なのですよ。
・でもでも、じゃあ艦隊戦ならできるでしょ?
おやおや、これは他のSFのファンにまで嫌われるかもしれません。確かにできますが、もう一つの決定的な事を言います。
ビーム兵器は、光の速度で進行する兵器です。一秒間で地球を7回半だそうですから、見えた時には当たっているのです。だから、ビームの光が見えてから「ぶつかる、回避」という事は不可能なのです。しかもコンピュータ制御ですから、計算に誤差やミスが無い限り百発百中で命中します。ビーム兵器に狙われたらそこで終わりだと考えてください。艦隊レベルであれば、貫通力も絶大です。
また、ジムなどはどこに当たっても爆発しますが、エネルギー系のユニットでなければ、たいていの場合爆発しないのではないでしょうか。それでは絵的に面白くないのでしょうかね。
つまり、「小惑星などを盾として見えないようにし、精密な計算で大出力一発撃ち」で終了、というのが本当のビーム兵器による艦隊戦なのではないか?と思います。
ええとですね、つまり兵器同士による「打ち合い」や「戦闘状態が一定時間続く」という状況は、現実的にはあまり無い事なのですよ。だから、ガンダム的戦闘はそもそも成立しないと推測できるわけです。
いやできるんだ、ガンダムにケチをつけるなという人が居たのでは、単なる水かけ論になってしまいそうですね。
地上での運動については、重力がありますから、機械的には大きくなるほど難しいわけです。人間相手なんかだと心理的威圧効果はあるでしょうけどね。格闘技なんかみたいに、必ずしも大きいから強い、というわけでもないのですよ。3〜4メートル級なら作れるかもしれませんがね。
えーと、僕は確かに昔トミノさんに喧嘩を売りましたが、今見てみると、ガンダムの人間関係は・・・・テーマとしてはよくできてると思いますよ。逆襲のシャアなんか特に。あれは、「見解の異なる2人のニュータイプがぶつかりあう話」だと思いますよ。
ただ、多くの人には、男性的な攻撃欲求のを具現化した戦争映像として消費されてしまっているのではないですかね。「戦闘シーン中毒」と診断できる人って、アニメ見てる人で多そうですよ。(いや、そういう病名ないけど、病名なんざ作ればある事になるからさ。)
ああ、長文撃つのもけっこうしんどいです。
登録:
投稿 (Atom)