私は今まで、大きく分けて、音楽、写真、映像、文章を主にデザインの手法で作ってきました。
当然、最初は試行錯誤があったわけですが、その結果、脳内に手法が構築されていき、これが「作品を量産」するための重要な道具となりました。
例えばプラモデルをたくさん作るには、金型を作らなきゃいけないじゃないですか。金型=Model というわけです。
その結果、「自分で作ったものに教えられる」という不思議な現象が起こるのです。
多忙につき時間が無いので、そのうちいくつか紹介しましょう。
たぶん、クリエイターにとっては有益なテキストでしょう。
・写真編 (高度編)
1 被写体を好きになれ。義務感で撮った写真は没になる。
好きな被写体しか撮るな。自分が好きな被写体は
自分が好きな写真になり、反復して人もそれを好きになる。
2 撮影には予定されている撮影だけでなく、自由時間を持たせろ。
特に何をするという目的の無い自由時間に偶然、必然的な
シャッターチャンスが舞い降りる可能性が多いにある。
3 直感を信じろ。シャッターを押す時は、
インスピレーションの権化となれ。自意識(エゴ)を捨てて
シャッターをきれ。
4 編集は、写真を頭の中の理想像(イデア)に近づける事だけを考えろ。
撮った段階でうまく撮れていなければ、どんなに編集しても無駄だ。
編集はあくまで、完成度を高めるための化粧にすぎない。
・写真編 (基礎編)
1 被写体の余計な部分は潔く全て捨てろ。撮りたい一つのものだけに
集中せよ。選択と集中が完成度を高める。
2 可能な限り歩き回って、整合性のある構図を頭の中で3Dで考えろ。
そしてできるだけその通りに撮れ。そのためには
アクロバットな姿勢になる事も覚悟せよ。
・映像編
1 多くの人が見るものであれば、観客が予想していない展開を考えろ。
2 心のパワーを編集力に変換して費やせ。映像制作は体力を消耗する。
3 制作へのモチベーションが無いなら、まず初めにモチベーションを作れ。
モチベーションが無ければ何も作れない。
4 全てをシステマティックに考えろ。プログラミングと同じだと思え。
5 理論的に手を抜くと、駄作になりやすい。考え抜け。
・音楽、映像共通編
安心できる、波の少ない展開の中に、人が許容できる程度の適度な大波を入れろ。それが音楽とミュージックビデオだ。
・音楽編
驚きと安心を適度に織り交ぜろ。怒りをテーマにした曲なら、怒りから自分を超越して、怒りを客観視せよ。感情の中に居ては、作曲はできない。感情を超越した理性で、あくまでも構造的にものを作れ。半分感情の中につかりつつも、理性のほうが優位の状態になれ。
以上です。ひょっとしたら誰かの参考になるかな?
しかし、われながら厳しい内容ですね。
どうしろって感じ。
もう一つ、クリエイティブ共通の重要な事を言います。
・このような厳しい条件をクリアしなければならない。そのためには精神力と体力が削られ、多くの場合それは回復できず、寿命が削られる。または病気になる。あまりクリエイターを熱心にやりすぎると、死んでしまう。
それから、これは私個人の場合ですが、
・創作は、本当の自分を知るための鏡を作る行為。
自分の作品は、自分の人間性を生々しく映し出す。
(自分の心の中を見たくない人は、何も作らないほうが良いかもしれない。)
最近UNIX哲学なるものを知ったのですが、それに通じる部分もあるかもしれません。興味のある方はクリック(Wikipedia。)
あとそれから、残酷な話ですが、
作品が成功するかの何十%は運。
作者が成功するかの何十%は運。
ただし、成功という概念自体が実は、歪んだバーチャルリアリティの上にかろうじて成り立っている歪んだ概念。よって外面的な成功という言葉に振り回される必要は無い。
何をもって、自分は成功したと自分で見なすかは、各自の考えによって決まる。成功の定義の種類は、人によって千差万別の違いがある。
最近のブログセクションに新曲あり。ダウンロードもできるよ。
(EasyMan/HogeHoge名義の101曲目の曲ですが、
私の中で重要なテーマの曲となりました。※)
※「ゆるやかな消滅」。きれいで安定した音の心地よさと同時に、
そのまま消えて行きそうな不安感を感じるような曲です。
僕らしいというか何というか。自作楽器を使用しています。
2009年3月1日日曜日
2009年1月30日金曜日
ベーシックインカムは、成立できない机上の空論
今日は、マネーと経済の話をしますが、週間こどもニュース並みに簡単に説明します。
Nakamura Programsの「格言」の中にもあります通り、お金とは権利券であり紙切れです。
つまり、やや乱暴に言うならば、「お金は、いくら印刷して一般に流通させても良い」という事になります。
これから、お金の本質について、非常に重要で、広く一般に知られるべき事を述べます。
仮に、ある国の全員がお金持ちだったとしましょう。当然、みんなは「お金持ちだから働かなくていい」と思っています。
すると、「みんなお金持ちなのに、一人もお金を使う事ができない」という状況になる事がわかります。
(つまり、いくらお金があってもサービスを受けられない。)
お金はいくら刷ってばらまいても構わないのですが、流通しているお金に見合った労働力が存在していないと、お金は、使うという事ができなくなるのです。
現状の金融経済は、こういった観点から作られていないので、しばしばインフレやデフレといった、労働力と金額のふつりあいが起こります。インフレは、労働力に対してお金が強すぎ、デフレは、労働力に対してお金が弱すぎるのです。
つまり、国の経済的に、最も理想的な状態は、
個々人や企業がお金を十分使う事ができ、国の中でお金に対する労働力がピッタリ一致している状態
という事になります。
ベーシックインカムは、こういった根本的な観点から見ると幼稚な案である事がわかります。一言で言うと、ベーシックインカムは、お金が多くなり、労働力が減少するからです。つまり、先に述べたような「お金を持ってるけど使えない」状態になる事が予想されます。
ベーシックインカムを実施すれば、労働力もアップすると性善説的に言う人たちが居ますが、私は残念ながら、どちらかと言えば性悪説支持者です。
また、昨今マスコミが騒がしい給付金については、株式日記と経済展望さんと同じく「うん十万円規模の多額の給付」が望ましいと思います。もともと、存在自体が架空の存在であるお金というものの帳尻など、いかようにでも改変して構わないと思います。(社会が正常に運営されればそれでいいではありませんか。)つまり給付金も、ゼロから産まれた給付金という事にすればいいだけの話です。
今は、労働力が多すぎてお金が足りないという状況ですから、お金を増やせば良いのです。定額給付金の額さえ大きければ、バカな法案だとは私は思いません。むしろ良いポイントを突いています。
国の中の、全金額と全労働力のバランスさえとれれば良いのですよ。小難しい事を言って人をけむに巻くのはいかがあものでしょうか。物事の本質はいつもシンプルです。
Nakamura Programsの「格言」の中にもあります通り、お金とは権利券であり紙切れです。
つまり、やや乱暴に言うならば、「お金は、いくら印刷して一般に流通させても良い」という事になります。
これから、お金の本質について、非常に重要で、広く一般に知られるべき事を述べます。
仮に、ある国の全員がお金持ちだったとしましょう。当然、みんなは「お金持ちだから働かなくていい」と思っています。
すると、「みんなお金持ちなのに、一人もお金を使う事ができない」という状況になる事がわかります。
(つまり、いくらお金があってもサービスを受けられない。)
お金はいくら刷ってばらまいても構わないのですが、流通しているお金に見合った労働力が存在していないと、お金は、使うという事ができなくなるのです。
現状の金融経済は、こういった観点から作られていないので、しばしばインフレやデフレといった、労働力と金額のふつりあいが起こります。インフレは、労働力に対してお金が強すぎ、デフレは、労働力に対してお金が弱すぎるのです。
つまり、国の経済的に、最も理想的な状態は、
個々人や企業がお金を十分使う事ができ、国の中でお金に対する労働力がピッタリ一致している状態
という事になります。
ベーシックインカムは、こういった根本的な観点から見ると幼稚な案である事がわかります。一言で言うと、ベーシックインカムは、お金が多くなり、労働力が減少するからです。つまり、先に述べたような「お金を持ってるけど使えない」状態になる事が予想されます。
ベーシックインカムを実施すれば、労働力もアップすると性善説的に言う人たちが居ますが、私は残念ながら、どちらかと言えば性悪説支持者です。
また、昨今マスコミが騒がしい給付金については、株式日記と経済展望さんと同じく「うん十万円規模の多額の給付」が望ましいと思います。もともと、存在自体が架空の存在であるお金というものの帳尻など、いかようにでも改変して構わないと思います。(社会が正常に運営されればそれでいいではありませんか。)つまり給付金も、ゼロから産まれた給付金という事にすればいいだけの話です。
今は、労働力が多すぎてお金が足りないという状況ですから、お金を増やせば良いのです。定額給付金の額さえ大きければ、バカな法案だとは私は思いません。むしろ良いポイントを突いています。
国の中の、全金額と全労働力のバランスさえとれれば良いのですよ。小難しい事を言って人をけむに巻くのはいかがあものでしょうか。物事の本質はいつもシンプルです。
2009年1月25日日曜日
魔法は必要か
「超能力は必要か」の後編だが、短く済ませる。
魔法は、悪魔の方法と書いて魔法と書く。実際、原点である中世の魔法も、悪魔との契約に基づいて力が得られる事になっている。魔法は、そもそもダークなパワーなのだ。
高度なテクノロジーは魔法と区別がつかないとはよく聴く台詞だが、こちらのほうがクリーンである。
一つだけ言える事は、筋が通っていない理不尽な便利さは、悪魔を連れて来るという事だ。つまりは、「何の代償も無しに便利な力を手に入れる事はできない」という事でもある。そして、人間のそんな身勝手で自分勝手な要求に答えるのは、たいていの場合悪魔であるという事である。
それとは対照的に、人格者にのみ備わる事がある、人を癒す力というものがある。(治癒力など。)これについては特に名前がついていないが、ホーリーな系統のパワーと見なす事ができる。しかし、こちらはよほどの事が無いと備わらない。
魔法は比較的安易に備わるが、本人にとってダメージも大きい。対して、ホーリーなパワーは、授かるのが非常に難しいが、本人にとってダメージは無いという事なのだろう。
いずれにせよ、一般の人がなんとなくイメージする単純に便利な魔法や超能力と違って、もし現実に超能力や魔法があるとしたら、かなり過酷な人生になるという事だ。
また、これは各種の分野の才能ある人たちにも同じ事が言える所がある。彼ら(彼女ら)の人生はしばしば、能力を誰かに利用されたり(例えば、安月給のクリエイターをさせられる等)、怪しい所に勧誘されたり、能力を使いすぎて精神を病んだりする事が多い。人生を才能に振り回されてしんどい思いをするというのも、ありふれた話だ。
また、才能がどうして出現するのかについては、過去世で努力した結果と私は解釈する。才能は努力100%でできているのだ。もしも、筋の通っていない理不尽な才能、すなわち努力の積み重ねの結果ではない才能があるとすれば、魔法の例と同様に、何らかのペナルティが同時に課せられていると考えるべきだろう。
つまり、能力に振り回されてしんどい思いをしたく無ければ、能力を封印してしまう事しかない。(意図的に、使わないようにする。)意外に、こういう「実はすごい能力があるけど、それでひどい目にあったから、それを隠して普通の人をしている」人というのは、昔も今もたくさん存在している。
ホーリーなパワーは、他人への無条件の奉仕などによって、ごくまれに授けられる事があるようだが、あくまでもそれは結果的にであって、パワーが欲しいから他人に奉仕するというのでは、間違っても授けられないだろう。
魔法は、悪魔の方法と書いて魔法と書く。実際、原点である中世の魔法も、悪魔との契約に基づいて力が得られる事になっている。魔法は、そもそもダークなパワーなのだ。
高度なテクノロジーは魔法と区別がつかないとはよく聴く台詞だが、こちらのほうがクリーンである。
一つだけ言える事は、筋が通っていない理不尽な便利さは、悪魔を連れて来るという事だ。つまりは、「何の代償も無しに便利な力を手に入れる事はできない」という事でもある。そして、人間のそんな身勝手で自分勝手な要求に答えるのは、たいていの場合悪魔であるという事である。
それとは対照的に、人格者にのみ備わる事がある、人を癒す力というものがある。(治癒力など。)これについては特に名前がついていないが、ホーリーな系統のパワーと見なす事ができる。しかし、こちらはよほどの事が無いと備わらない。
魔法は比較的安易に備わるが、本人にとってダメージも大きい。対して、ホーリーなパワーは、授かるのが非常に難しいが、本人にとってダメージは無いという事なのだろう。
いずれにせよ、一般の人がなんとなくイメージする単純に便利な魔法や超能力と違って、もし現実に超能力や魔法があるとしたら、かなり過酷な人生になるという事だ。
また、これは各種の分野の才能ある人たちにも同じ事が言える所がある。彼ら(彼女ら)の人生はしばしば、能力を誰かに利用されたり(例えば、安月給のクリエイターをさせられる等)、怪しい所に勧誘されたり、能力を使いすぎて精神を病んだりする事が多い。人生を才能に振り回されてしんどい思いをするというのも、ありふれた話だ。
また、才能がどうして出現するのかについては、過去世で努力した結果と私は解釈する。才能は努力100%でできているのだ。もしも、筋の通っていない理不尽な才能、すなわち努力の積み重ねの結果ではない才能があるとすれば、魔法の例と同様に、何らかのペナルティが同時に課せられていると考えるべきだろう。
つまり、能力に振り回されてしんどい思いをしたく無ければ、能力を封印してしまう事しかない。(意図的に、使わないようにする。)意外に、こういう「実はすごい能力があるけど、それでひどい目にあったから、それを隠して普通の人をしている」人というのは、昔も今もたくさん存在している。
ホーリーなパワーは、他人への無条件の奉仕などによって、ごくまれに授けられる事があるようだが、あくまでもそれは結果的にであって、パワーが欲しいから他人に奉仕するというのでは、間違っても授けられないだろう。
超能力は必要か
I'm EasyMan音楽セクションのMySpaceを
別ウィンドゥで開いて、新曲のDouble Leadでも
聴きながら読んでみてはどうだろうか。
フィクションの世界では、よく超能力やそれに類する能力が描かれる。その観客は普通、「そんなのはあり得ない」と文句を言ったりはしない。
Mixiニュースによると、「欲しい特殊能力ランキング」の一位はテレポーテーションだったという。
この事をふまえて、そもそも人間に超能力は必要なのかを少し考えてみたい。
テレポーテーションが一位になるというのは納得できる。単純に便利だからである。通勤通学も一瞬で、交通費もかからない。テレポーテーションに類似した能力としてアポーツ(物の取り寄せ)があるが、これが使えれば、忘れ物の心配をしなくて良くなりそうで、これまた便利だ。特にこれといった問題の無い能力に思える。ただ、万が一テレポートに失敗するとどうなるのかという疑問は残る。もし、自分が行った事のある場所でなくてもテレポートできるなら、特殊軍事機関などに誘拐、もしくは勧誘されて利用される可能性が高い。
超能力を大きく分けると、「テレポート」「サイコキネシス」「テレパシー/リーディング」の3系統があるが、テレパシーやリーディングは若干問題のある能力と思える。人は誰しも、やましい事を考える事があるものだ。周囲のそれがわかってしまうテレパスは、多くの場合精神的な負担が大きくなる事が懸念される。この対策としては、悪性の思念に耐性をつけるしかないのであるが、例えばその過程で当人の性格が歪んでしまう可能性がある。もし高度なテレパスが、繊細で傷つきやすい人であれば、精神を病んだり、自殺したりする可能性が高い。また、諜報機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。
そして、最も問題があると思われる能力が「サイコキネシス」である。ここでは、手を使わずに、つまり物理的な干渉をせずに、物理的に物体に干渉する、または何らかのエネルギーを放射する事を指す。よくフィクションであるように、超人的な力を発揮するサイコキノ(サイコキネシス能力者の呼び名)は、その力を発揮するシチュエーションが以下の二通りに大別できる。
1・人格者のサイコキノの場合は、しばしば、悪の組織からの自衛のために力を行使する。正義を掲げる組織の一員であったりする事が多い。
2・人格がよろしくないサイコキノの場合は、しばしば、自分の暴力的欲望のために力を行使する。法律の崩壊した世界観である事が多い。
超能力者、つまりエスパーは、その人本人が持つ人格によって、非常に危険で迷惑な存在にもなれば、便利な兵器にもなる。こと物理的な強い干渉力のあるサイコキノが、例えば性格に問題のある子供であったりしたらどうなるだろうか。些細な事でいちいち家を吹き飛ばされたり、ケンカになった時に相手が絶命してしまったりしかねない。ドラゴンボールのような戦争まがいの事をされては、一般市民的にはたまったものではない。何事にせよ、争わずに済むのがベストのはずである。
サイコキノも、見た目は普通の人間なので、これまた、軍事機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。利用価値は絶大と思われる。
あなたがもし超能力者であれば、以上のような理由から、能力を隠して生活したほうがいいという事になる。下手をすれば、能力ゆえに、一生能力を誰かに利用されて暮らさなければならなくなる可能性が高い。また本人にグレてもらっては、非常に危険でもある。サイコキノは、おだてて使わなくてはならない存在なのだ。
もう一つの最大の疑問がある。超能力のパワーソースは、どこから来ているのかという事である。実は、テレポートに関しては説明がつく。要は座標転移をするという事なので、エネルギーはさほど必要としないものと思われる。
テレパシーも、エネルギーにはあまり関係が無い。
しかし、サイコキネシスはその物理的エネルギーがどこから来ているのか不明である。少なくとも、摂取カロリーというわけでは無さそうだ。エネルギー保存の法則に従って、「ここではないどこか他の場所から」エネルギーを調達しているという事になる。
海外のGoogleの検索ワード1位になったドラゴンボールでは、これについて有名な描写がある。元気玉を生成する際に、「地球のみんな」から元気をわけてもらうというものである。要は、生体エネルギーを集めて電気的エネルギーに変換しているのではないか?
一方、「なのは」では、音声認識で操作できる高度な「デバイス」にひたすら頼りっきりで壊れたら修理しなくてはいけない、という事になっている。筆者の勝手な推測としては、あのデバイスはSun Rayのような一種のシンクライアントで、エネルギーは管理局の発電所あたりから転送されているのではないかと推測する。(デバイス単体でエネルギーをどこからともなく集める事は不可能だと思うから。)Sun Rayの事を調べてもらえば納得してもらえると思う。
また我々はなぜ、フィクション上の超能力を生理的な違和感を覚えずに鑑賞できるのだろうか?絶対にあり得ないと解っている事なら、ばかばかしくて見る気も起きないはずである。
そして最大の問題に言及する。実際には、派手な超能力を持った人というのは居ないという事である。サバンに関しては、一部の脳機能が非常によくできているというだけで、超能力ではないものとする。エスパー達がもし普通に居る程度の確率で存在したら、超能力者に関する法律もできているだろうし、超能力を用いた社会の混乱や犯罪も絶えないだろう。極論、我々の生活に超能力は必要ないのだ。確かに、最初のうちは生活上で多少便利な面はあるかもしれないが、誘拐、利用されたりする危険のほうが高いからである。ESPは、エスパー本人の人生に混乱をもたらし、周囲にも混乱をもたらす力だと言っても過言ではないかもしれない。本当に「スプーン折り」ができる日本のある人は、ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」で「スプーンと一緒に人生も曲がった」という趣旨の発言をしている。
しかし実際には、現実にそういった派手な超能力者は居ない。某国の超能力機関の有能なエスパーでさえ、金属のさやに入った紙の文字を、テレビ番組で読み間違えたりしている程度なのだから。スプーンを触らずに折る人はすごいが、干渉力としては危険とはほど遠い、微々たるものに思える。
仮に強力なエスパーが特定の機関などに属しているとしても、その力を使う所は必ず誰かに目撃などされるものであり、仮に目撃した人を全員証拠隠滅のために葬っているのだとしても、今まで全く情報が漏れなかったというのはほとんど奇跡に近い。つまり、そういう事はおそらく無いのである。
(当サイトの、私のスプーン曲げ映像も、実は超能力ではなく、物理的なコツで、あっさり曲げているように見せかけて、力で曲げているにすぎない。)
次回は、「中世における魔法」について、続けて少し考える。
別ウィンドゥで開いて、新曲のDouble Leadでも
聴きながら読んでみてはどうだろうか。
フィクションの世界では、よく超能力やそれに類する能力が描かれる。その観客は普通、「そんなのはあり得ない」と文句を言ったりはしない。
Mixiニュースによると、「欲しい特殊能力ランキング」の一位はテレポーテーションだったという。
この事をふまえて、そもそも人間に超能力は必要なのかを少し考えてみたい。
テレポーテーションが一位になるというのは納得できる。単純に便利だからである。通勤通学も一瞬で、交通費もかからない。テレポーテーションに類似した能力としてアポーツ(物の取り寄せ)があるが、これが使えれば、忘れ物の心配をしなくて良くなりそうで、これまた便利だ。特にこれといった問題の無い能力に思える。ただ、万が一テレポートに失敗するとどうなるのかという疑問は残る。もし、自分が行った事のある場所でなくてもテレポートできるなら、特殊軍事機関などに誘拐、もしくは勧誘されて利用される可能性が高い。
超能力を大きく分けると、「テレポート」「サイコキネシス」「テレパシー/リーディング」の3系統があるが、テレパシーやリーディングは若干問題のある能力と思える。人は誰しも、やましい事を考える事があるものだ。周囲のそれがわかってしまうテレパスは、多くの場合精神的な負担が大きくなる事が懸念される。この対策としては、悪性の思念に耐性をつけるしかないのであるが、例えばその過程で当人の性格が歪んでしまう可能性がある。もし高度なテレパスが、繊細で傷つきやすい人であれば、精神を病んだり、自殺したりする可能性が高い。また、諜報機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。
そして、最も問題があると思われる能力が「サイコキネシス」である。ここでは、手を使わずに、つまり物理的な干渉をせずに、物理的に物体に干渉する、または何らかのエネルギーを放射する事を指す。よくフィクションであるように、超人的な力を発揮するサイコキノ(サイコキネシス能力者の呼び名)は、その力を発揮するシチュエーションが以下の二通りに大別できる。
1・人格者のサイコキノの場合は、しばしば、悪の組織からの自衛のために力を行使する。正義を掲げる組織の一員であったりする事が多い。
2・人格がよろしくないサイコキノの場合は、しばしば、自分の暴力的欲望のために力を行使する。法律の崩壊した世界観である事が多い。
超能力者、つまりエスパーは、その人本人が持つ人格によって、非常に危険で迷惑な存在にもなれば、便利な兵器にもなる。こと物理的な強い干渉力のあるサイコキノが、例えば性格に問題のある子供であったりしたらどうなるだろうか。些細な事でいちいち家を吹き飛ばされたり、ケンカになった時に相手が絶命してしまったりしかねない。ドラゴンボールのような戦争まがいの事をされては、一般市民的にはたまったものではない。何事にせよ、争わずに済むのがベストのはずである。
サイコキノも、見た目は普通の人間なので、これまた、軍事機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。利用価値は絶大と思われる。
あなたがもし超能力者であれば、以上のような理由から、能力を隠して生活したほうがいいという事になる。下手をすれば、能力ゆえに、一生能力を誰かに利用されて暮らさなければならなくなる可能性が高い。また本人にグレてもらっては、非常に危険でもある。サイコキノは、おだてて使わなくてはならない存在なのだ。
もう一つの最大の疑問がある。超能力のパワーソースは、どこから来ているのかという事である。実は、テレポートに関しては説明がつく。要は座標転移をするという事なので、エネルギーはさほど必要としないものと思われる。
テレパシーも、エネルギーにはあまり関係が無い。
しかし、サイコキネシスはその物理的エネルギーがどこから来ているのか不明である。少なくとも、摂取カロリーというわけでは無さそうだ。エネルギー保存の法則に従って、「ここではないどこか他の場所から」エネルギーを調達しているという事になる。
海外のGoogleの検索ワード1位になったドラゴンボールでは、これについて有名な描写がある。元気玉を生成する際に、「地球のみんな」から元気をわけてもらうというものである。要は、生体エネルギーを集めて電気的エネルギーに変換しているのではないか?
一方、「なのは」では、音声認識で操作できる高度な「デバイス」にひたすら頼りっきりで壊れたら修理しなくてはいけない、という事になっている。筆者の勝手な推測としては、あのデバイスはSun Rayのような一種のシンクライアントで、エネルギーは管理局の発電所あたりから転送されているのではないかと推測する。(デバイス単体でエネルギーをどこからともなく集める事は不可能だと思うから。)Sun Rayの事を調べてもらえば納得してもらえると思う。
また我々はなぜ、フィクション上の超能力を生理的な違和感を覚えずに鑑賞できるのだろうか?絶対にあり得ないと解っている事なら、ばかばかしくて見る気も起きないはずである。
そして最大の問題に言及する。実際には、派手な超能力を持った人というのは居ないという事である。サバンに関しては、一部の脳機能が非常によくできているというだけで、超能力ではないものとする。エスパー達がもし普通に居る程度の確率で存在したら、超能力者に関する法律もできているだろうし、超能力を用いた社会の混乱や犯罪も絶えないだろう。極論、我々の生活に超能力は必要ないのだ。確かに、最初のうちは生活上で多少便利な面はあるかもしれないが、誘拐、利用されたりする危険のほうが高いからである。ESPは、エスパー本人の人生に混乱をもたらし、周囲にも混乱をもたらす力だと言っても過言ではないかもしれない。本当に「スプーン折り」ができる日本のある人は、ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」で「スプーンと一緒に人生も曲がった」という趣旨の発言をしている。
しかし実際には、現実にそういった派手な超能力者は居ない。某国の超能力機関の有能なエスパーでさえ、金属のさやに入った紙の文字を、テレビ番組で読み間違えたりしている程度なのだから。スプーンを触らずに折る人はすごいが、干渉力としては危険とはほど遠い、微々たるものに思える。
仮に強力なエスパーが特定の機関などに属しているとしても、その力を使う所は必ず誰かに目撃などされるものであり、仮に目撃した人を全員証拠隠滅のために葬っているのだとしても、今まで全く情報が漏れなかったというのはほとんど奇跡に近い。つまり、そういう事はおそらく無いのである。
(当サイトの、私のスプーン曲げ映像も、実は超能力ではなく、物理的なコツで、あっさり曲げているように見せかけて、力で曲げているにすぎない。)
次回は、「中世における魔法」について、続けて少し考える。
2009年1月10日土曜日
人間は水ぶくれの一種である
また「僕のうざい側面」である「哲学モード」で、僕の好きな長文打ちをやってみよう。先ほどの「生命体についての考察」の後付け。
でもこれが無いと創造的になれない、これが創造性の根幹を成している事も事実だから面倒くさい。
熱いものに触って、指先に大きめの水ぶくれを創ってしまった事がある。その水ぶくれを見て触っていると、このような感想を持った。「ぶよぶよしていて、まるで、自分の上にもう一つ自分が出来たようだ。」
その水ぶくれは、破けて水が出て、そのうちなくなった。これを見てこう思った。「まるで、ホラーで血がドバッと出るシーンのようだ。」
総じてこう思った。「人体とは、一種の水ぶくれと定義する事ができる。"ホラーで血がドバッと出て怖いのは、人間が水風船でできた血の塊だという事を知るからだ"とどこかで聴いた事があるが、つまりはそういう事なのだ。」と。
「自己組織化と自己増殖化を基本的傾向とする、サイバネティックスでニューラルな知性を持った水ぶくれ」とでも言えばいいのだろうか。水ぶくれの一種としては、ずいぶん無駄に複雑なシロモノで、当方としては色々と迷惑を被っている。
そういう意味では、植物や昆虫や建築のほうがずいぶんとシンプルで、かつ多様性があって美しいので、僕はそういう写真を好んで撮る傾向がある。また、MacBook DPのトップ記事にもある通り、人は基本的に撮らない。なぜなら撮りたくないからだ。
人は、
出す方
汗をかく
スモーラートイレに行く
様々な汁を出す
入るほう
水および水を含むものを摂取する
というように、組織化した水ぶくれである体を維持するために、絶えず水の入出力を行っている。このサイクルを科学的に算出し、適切な「身体水循環」を行えば、気分もだいぶ良くなるのではないだろうか。日頃身につけているiPodやiPhoneなんかでできないだろうか。Nike+みたいにさ。専門家が理論を作ればできると思うよ。
また、火葬を見た事のある人ならわかるだろうが、人間の身体というものは、焼けば骨を残してきれいになくなる。
骨も、(遺体遺棄にあたるのでやってはいけないが)土に埋めればやがて土に還る。
くどいようだが、人間とはつまりそれ自体、特別な存在ではないのである。その人がどんな人かは、正直言ってこういう側面から見るとあまり変わりない事になる。
でもこれが無いと創造的になれない、これが創造性の根幹を成している事も事実だから面倒くさい。
熱いものに触って、指先に大きめの水ぶくれを創ってしまった事がある。その水ぶくれを見て触っていると、このような感想を持った。「ぶよぶよしていて、まるで、自分の上にもう一つ自分が出来たようだ。」
その水ぶくれは、破けて水が出て、そのうちなくなった。これを見てこう思った。「まるで、ホラーで血がドバッと出るシーンのようだ。」
総じてこう思った。「人体とは、一種の水ぶくれと定義する事ができる。"ホラーで血がドバッと出て怖いのは、人間が水風船でできた血の塊だという事を知るからだ"とどこかで聴いた事があるが、つまりはそういう事なのだ。」と。
「自己組織化と自己増殖化を基本的傾向とする、サイバネティックスでニューラルな知性を持った水ぶくれ」とでも言えばいいのだろうか。水ぶくれの一種としては、ずいぶん無駄に複雑なシロモノで、当方としては色々と迷惑を被っている。
そういう意味では、植物や昆虫や建築のほうがずいぶんとシンプルで、かつ多様性があって美しいので、僕はそういう写真を好んで撮る傾向がある。また、MacBook DPのトップ記事にもある通り、人は基本的に撮らない。なぜなら撮りたくないからだ。
人は、
出す方
汗をかく
スモーラートイレに行く
様々な汁を出す
入るほう
水および水を含むものを摂取する
というように、組織化した水ぶくれである体を維持するために、絶えず水の入出力を行っている。このサイクルを科学的に算出し、適切な「身体水循環」を行えば、気分もだいぶ良くなるのではないだろうか。日頃身につけているiPodやiPhoneなんかでできないだろうか。Nike+みたいにさ。専門家が理論を作ればできると思うよ。
また、火葬を見た事のある人ならわかるだろうが、人間の身体というものは、焼けば骨を残してきれいになくなる。
骨も、(遺体遺棄にあたるのでやってはいけないが)土に埋めればやがて土に還る。
くどいようだが、人間とはつまりそれ自体、特別な存在ではないのである。その人がどんな人かは、正直言ってこういう側面から見るとあまり変わりない事になる。
生命体についての考察
本論では、あくまでも科学哲学の観点から、生命体を考察する。
性とは、文字通り、生命を持つ個体の持つ基本的性質の違いである。性別が男性である場合と、女性である場合とでは、肉体から人格に至るまで違いが認められており、例えば男性であれば男性器があり、肉体は体毛が多くひげがよく生え、女性に比べて筋肉質であるなどの共通する特徴が見られる。
しかし、性別の無い生物というものも存在する。その多くは原始生物、すなわちバクテリアや微生物といったものである。
無性の生物も、有性の生物も、一代の生命体としての最終目標は同じである。すなわち、次世代の子孫を作るという目標である。これを当方では、「終わりなきバトンリレー」と呼称する事にしている。その種自体が滅びない限りにおいて、生きるというバトンを次世代、つまり子孫に渡して自分が死ぬ、そのバトンを渡された次世代が次次世代を産み、次次次世代にバトンを渡す、という事を理論上は永遠に繰り返すからである。当方ではこれをさらに「無限ループ逃避活動」とも呼称する。人生を、バトンを渡す事に精一杯で、自分の人生を生きようとしないまま、次世代にバトンを渡してしまう事はよくある事で、さらにその次世代も、自分の人生を生きないままに、バトンを渡す事に夢中になってバトンを次に渡してしまう。
そもそも、何のために生命体は存在しているのかという疑問がここに呈されるが、性にまつわる人間の基本構造を見る限り、「バトンを渡す」という事に最大の重点が置かれている事には、もはや疑問の余地は無い。人間は犬や猫と違っていつでも発情期であり、その思考内容のかなりのパーセンテージは「性、食、生命維持」に関する事であり、それは微生物と何ら変わりない。
もし、生命の設計者が、自分自身で、生命の存在理由を見いだせないまま生命を作ったのだとしたら、永遠に同じ個体が生きるのではつまらないので、一定期間で個体は死に、子孫という形でひたすら次にバトンを渡し続けるという構造にした、という事は考えられないだろうか。私は十分あり得る話だと思う。つまり我々は、生命のクリエイターが出せなかった答えを、何千代かかっても出せないという生命であり、言わば哀れな失敗作なのである。その失敗作がどんなに頭をひねった所で、生命のクリエイターが出せなかった答えである「生命の存在理由」など、わかろうはずも無い。また、性という生命の根本原理に逆らって生きるという事は、生命体であるが故に非常な苦痛を伴う。
故に、我々は生命体とは神の失敗作であるという真実を早期かつ素直に認め、生命の基本原理にのっとって生きる事が得策であるという事になる。
ここで大切なのは、生命の存在理由などといった、大きな哲学的命題を無視する事である。我々は所詮、失敗作の生まれであるから、失敗作として生きれば良いだけの話である。言い方を変えれば、足るを知れという事である。
また、交わりと自己増殖という基本モデルは、性のみならず人間の諸活動全てに見いだす事ができる。例えば、有名になりたいという願望は、自分と言う概念を多くの他人に認識させたいという意味で、自己増殖的である。自分の製品や作品を世界に認めさせ、流通させたいという欲望もまた、極めて自己増殖的である。このように、人間という存在は、高度な事をしているように見えて、実は意外なほどに微生物のレベルから、基本的には何も進歩していないのである。家電製品やメディアが進歩していく様子は、生命体の進化に似ている側面があるが、これもまた微生物の根本原理から抜け出せていない。
このような観点からは、むしろ、他の種や自然風景、植物といった種のほうが、むしろ微生物から進歩していると言える。君の行動モデルは微生物と同じと言われて、人間はもっと高度だと言いたくなる人は多いだろうが、自分の今までの活動を、あくまで科学哲学的に見直してみてほしい。本当にそう言い切れるだろうか?
多くの人の性質は、原始的である。ゆえに、ある人が多くの人に理解されるという事は、その人が原始的であるという事になる。さらに、何かが世界的に理解されるという事は、その何かが原始的に筋が通っているだけ、という事になる。デザインや設計という行為もまたしかり、である。偉大なクリエイターも著名人も、実は何ら創造的ではなく、単に生命の基本原理に忠実な、生命の基本原理の忠実な奴隷であるだけなのである。
つまり、「性、食、生命維持」というこの3つを全員で自覚し、それに特化した社会を構築すれば、基本的にはいち生命体群として幸福が約束されるのである。残念ながら、我々は意外なほど、それらで満足できるように設計されているものなのだ。
EOF
性とは、文字通り、生命を持つ個体の持つ基本的性質の違いである。性別が男性である場合と、女性である場合とでは、肉体から人格に至るまで違いが認められており、例えば男性であれば男性器があり、肉体は体毛が多くひげがよく生え、女性に比べて筋肉質であるなどの共通する特徴が見られる。
しかし、性別の無い生物というものも存在する。その多くは原始生物、すなわちバクテリアや微生物といったものである。
無性の生物も、有性の生物も、一代の生命体としての最終目標は同じである。すなわち、次世代の子孫を作るという目標である。これを当方では、「終わりなきバトンリレー」と呼称する事にしている。その種自体が滅びない限りにおいて、生きるというバトンを次世代、つまり子孫に渡して自分が死ぬ、そのバトンを渡された次世代が次次世代を産み、次次次世代にバトンを渡す、という事を理論上は永遠に繰り返すからである。当方ではこれをさらに「無限ループ逃避活動」とも呼称する。人生を、バトンを渡す事に精一杯で、自分の人生を生きようとしないまま、次世代にバトンを渡してしまう事はよくある事で、さらにその次世代も、自分の人生を生きないままに、バトンを渡す事に夢中になってバトンを次に渡してしまう。
そもそも、何のために生命体は存在しているのかという疑問がここに呈されるが、性にまつわる人間の基本構造を見る限り、「バトンを渡す」という事に最大の重点が置かれている事には、もはや疑問の余地は無い。人間は犬や猫と違っていつでも発情期であり、その思考内容のかなりのパーセンテージは「性、食、生命維持」に関する事であり、それは微生物と何ら変わりない。
もし、生命の設計者が、自分自身で、生命の存在理由を見いだせないまま生命を作ったのだとしたら、永遠に同じ個体が生きるのではつまらないので、一定期間で個体は死に、子孫という形でひたすら次にバトンを渡し続けるという構造にした、という事は考えられないだろうか。私は十分あり得る話だと思う。つまり我々は、生命のクリエイターが出せなかった答えを、何千代かかっても出せないという生命であり、言わば哀れな失敗作なのである。その失敗作がどんなに頭をひねった所で、生命のクリエイターが出せなかった答えである「生命の存在理由」など、わかろうはずも無い。また、性という生命の根本原理に逆らって生きるという事は、生命体であるが故に非常な苦痛を伴う。
故に、我々は生命体とは神の失敗作であるという真実を早期かつ素直に認め、生命の基本原理にのっとって生きる事が得策であるという事になる。
ここで大切なのは、生命の存在理由などといった、大きな哲学的命題を無視する事である。我々は所詮、失敗作の生まれであるから、失敗作として生きれば良いだけの話である。言い方を変えれば、足るを知れという事である。
また、交わりと自己増殖という基本モデルは、性のみならず人間の諸活動全てに見いだす事ができる。例えば、有名になりたいという願望は、自分と言う概念を多くの他人に認識させたいという意味で、自己増殖的である。自分の製品や作品を世界に認めさせ、流通させたいという欲望もまた、極めて自己増殖的である。このように、人間という存在は、高度な事をしているように見えて、実は意外なほどに微生物のレベルから、基本的には何も進歩していないのである。家電製品やメディアが進歩していく様子は、生命体の進化に似ている側面があるが、これもまた微生物の根本原理から抜け出せていない。
このような観点からは、むしろ、他の種や自然風景、植物といった種のほうが、むしろ微生物から進歩していると言える。君の行動モデルは微生物と同じと言われて、人間はもっと高度だと言いたくなる人は多いだろうが、自分の今までの活動を、あくまで科学哲学的に見直してみてほしい。本当にそう言い切れるだろうか?
多くの人の性質は、原始的である。ゆえに、ある人が多くの人に理解されるという事は、その人が原始的であるという事になる。さらに、何かが世界的に理解されるという事は、その何かが原始的に筋が通っているだけ、という事になる。デザインや設計という行為もまたしかり、である。偉大なクリエイターも著名人も、実は何ら創造的ではなく、単に生命の基本原理に忠実な、生命の基本原理の忠実な奴隷であるだけなのである。
つまり、「性、食、生命維持」というこの3つを全員で自覚し、それに特化した社会を構築すれば、基本的にはいち生命体群として幸福が約束されるのである。残念ながら、我々は意外なほど、それらで満足できるように設計されているものなのだ。
EOF
2008年11月19日水曜日
ガンダムを斬る
(2008/11/19 6時)
こほん。
以下は、エセSF考察の世界ですから気にしないでください。
簡単にいうと、こういう事です。
まずは前置き。
疑問1
・ひんぱんに使用される「ビーム兵器」は実在するのか?
ビームライフルって作れるのか?
答え1
・一応実現はしている。ただし、非常に大型で重量もあり、大量の電力を一度に消費するので、電源部分が強烈な出力でなければいけない。冷却機構も必要である。ある程度小型にして、例えば地球をピンポイントで狙い打つ事も可能とされているが、一発撃つのに、準備に年単位の時間がかかる。
カートリッジ式ビームライフルのような大きさと形状では、相当に技術的ブレイクスルーが無いと実現できないだろう。既存の技術で作るのでは、情けないくらいの破壊力しか実現できないはずだ。
疑問2 宇宙空間を自由に動けるの?
一応可能です。月へも行っていますから。ただし、月へ行って帰ってくる場合、基本的には一定方向への一直線コースのみです。軌道修正は微弱にしかできません。あれだけフレキシブルに動き回るには、前提としてかなり多くの方向にブースターが必要になり、ガンダムのブースターの個数は明らかに足りていません。あれでは、制御に失敗してくるくる回ったり、あらぬ方向へ飛んで行く可能性があります。もちろん、その制御技術のソフトウェア的なハードルも高いです。というか、手の部分に人を乗せて急に加速すると、その人は落ちて死んじゃいますから。というか、逆方向などに急加速するとパイロットはブラックアウトして即死ですから。ガンダムはGに寛容ですね。
疑問3 なぜガンダムは燃料切れにならないの?
ビルをやすやすと破壊して、しかも無傷である所を見ると、大変な大出力である事がわかりますが、それだけの出力を出せるデバイスというと、小型発電所並みです。それを高さ14メートルほどの機体に搭載する事は不可能です。サイズを小さくすれば、歩くのがやっとでしょう。この点に限定して言えば、エヴァのほうが若干リアルな描写と言えます。
ガンダムファンの皆さん、ごめんなさい。
これから、ガンダムがサイエンス「フィクション(SF)」である事が明らかになります。
仮に、宇宙戦で、MSを撃破したとしましょう。スペースデブリを知っていますか?砕かれた機体は、大小さまざまなデブリとなり、それ自体が想像を絶する破壊力を持ちます。これが無数の方向にチ飛び散るわけですから、一度撃って当たれば、味方も敵も無傷ではすまないか、最悪の場合全滅するでしょう。
熱力学的、エネルギー保存の法則を考えてみてください。言わば、機体に打ち込まれたビームが、破壊されて飛び散るデブリになって、それが無数に飛び散るのです。だから一発でも撃つと怖いんですよ。しかもデブリは、無重力だから、理論上は永久にそのままのスピードで進んでいきます。重力があればいつかわ落下しますけどね。
つまり、結論から言ってしまうと、宇宙空間とは、あれだけ派手に動きまわって撃ちまくれる空間ではないという事なのですよ。
・でもでも、じゃあ艦隊戦ならできるでしょ?
おやおや、これは他のSFのファンにまで嫌われるかもしれません。確かにできますが、もう一つの決定的な事を言います。
ビーム兵器は、光の速度で進行する兵器です。一秒間で地球を7回半だそうですから、見えた時には当たっているのです。だから、ビームの光が見えてから「ぶつかる、回避」という事は不可能なのです。しかもコンピュータ制御ですから、計算に誤差やミスが無い限り百発百中で命中します。ビーム兵器に狙われたらそこで終わりだと考えてください。艦隊レベルであれば、貫通力も絶大です。
また、ジムなどはどこに当たっても爆発しますが、エネルギー系のユニットでなければ、たいていの場合爆発しないのではないでしょうか。それでは絵的に面白くないのでしょうかね。
つまり、「小惑星などを盾として見えないようにし、精密な計算で大出力一発撃ち」で終了、というのが本当のビーム兵器による艦隊戦なのではないか?と思います。
ええとですね、つまり兵器同士による「打ち合い」や「戦闘状態が一定時間続く」という状況は、現実的にはあまり無い事なのですよ。だから、ガンダム的戦闘はそもそも成立しないと推測できるわけです。
いやできるんだ、ガンダムにケチをつけるなという人が居たのでは、単なる水かけ論になってしまいそうですね。
地上での運動については、重力がありますから、機械的には大きくなるほど難しいわけです。人間相手なんかだと心理的威圧効果はあるでしょうけどね。格闘技なんかみたいに、必ずしも大きいから強い、というわけでもないのですよ。3〜4メートル級なら作れるかもしれませんがね。
えーと、僕は確かに昔トミノさんに喧嘩を売りましたが、今見てみると、ガンダムの人間関係は・・・・テーマとしてはよくできてると思いますよ。逆襲のシャアなんか特に。あれは、「見解の異なる2人のニュータイプがぶつかりあう話」だと思いますよ。
ただ、多くの人には、男性的な攻撃欲求のを具現化した戦争映像として消費されてしまっているのではないですかね。「戦闘シーン中毒」と診断できる人って、アニメ見てる人で多そうですよ。(いや、そういう病名ないけど、病名なんざ作ればある事になるからさ。)
ああ、長文撃つのもけっこうしんどいです。
こほん。
以下は、エセSF考察の世界ですから気にしないでください。
簡単にいうと、こういう事です。
まずは前置き。
疑問1
・ひんぱんに使用される「ビーム兵器」は実在するのか?
ビームライフルって作れるのか?
答え1
・一応実現はしている。ただし、非常に大型で重量もあり、大量の電力を一度に消費するので、電源部分が強烈な出力でなければいけない。冷却機構も必要である。ある程度小型にして、例えば地球をピンポイントで狙い打つ事も可能とされているが、一発撃つのに、準備に年単位の時間がかかる。
カートリッジ式ビームライフルのような大きさと形状では、相当に技術的ブレイクスルーが無いと実現できないだろう。既存の技術で作るのでは、情けないくらいの破壊力しか実現できないはずだ。
疑問2 宇宙空間を自由に動けるの?
一応可能です。月へも行っていますから。ただし、月へ行って帰ってくる場合、基本的には一定方向への一直線コースのみです。軌道修正は微弱にしかできません。あれだけフレキシブルに動き回るには、前提としてかなり多くの方向にブースターが必要になり、ガンダムのブースターの個数は明らかに足りていません。あれでは、制御に失敗してくるくる回ったり、あらぬ方向へ飛んで行く可能性があります。もちろん、その制御技術のソフトウェア的なハードルも高いです。というか、手の部分に人を乗せて急に加速すると、その人は落ちて死んじゃいますから。というか、逆方向などに急加速するとパイロットはブラックアウトして即死ですから。ガンダムはGに寛容ですね。
疑問3 なぜガンダムは燃料切れにならないの?
ビルをやすやすと破壊して、しかも無傷である所を見ると、大変な大出力である事がわかりますが、それだけの出力を出せるデバイスというと、小型発電所並みです。それを高さ14メートルほどの機体に搭載する事は不可能です。サイズを小さくすれば、歩くのがやっとでしょう。この点に限定して言えば、エヴァのほうが若干リアルな描写と言えます。
ガンダムファンの皆さん、ごめんなさい。
これから、ガンダムがサイエンス「フィクション(SF)」である事が明らかになります。
仮に、宇宙戦で、MSを撃破したとしましょう。スペースデブリを知っていますか?砕かれた機体は、大小さまざまなデブリとなり、それ自体が想像を絶する破壊力を持ちます。これが無数の方向にチ飛び散るわけですから、一度撃って当たれば、味方も敵も無傷ではすまないか、最悪の場合全滅するでしょう。
熱力学的、エネルギー保存の法則を考えてみてください。言わば、機体に打ち込まれたビームが、破壊されて飛び散るデブリになって、それが無数に飛び散るのです。だから一発でも撃つと怖いんですよ。しかもデブリは、無重力だから、理論上は永久にそのままのスピードで進んでいきます。重力があればいつかわ落下しますけどね。
つまり、結論から言ってしまうと、宇宙空間とは、あれだけ派手に動きまわって撃ちまくれる空間ではないという事なのですよ。
・でもでも、じゃあ艦隊戦ならできるでしょ?
おやおや、これは他のSFのファンにまで嫌われるかもしれません。確かにできますが、もう一つの決定的な事を言います。
ビーム兵器は、光の速度で進行する兵器です。一秒間で地球を7回半だそうですから、見えた時には当たっているのです。だから、ビームの光が見えてから「ぶつかる、回避」という事は不可能なのです。しかもコンピュータ制御ですから、計算に誤差やミスが無い限り百発百中で命中します。ビーム兵器に狙われたらそこで終わりだと考えてください。艦隊レベルであれば、貫通力も絶大です。
また、ジムなどはどこに当たっても爆発しますが、エネルギー系のユニットでなければ、たいていの場合爆発しないのではないでしょうか。それでは絵的に面白くないのでしょうかね。
つまり、「小惑星などを盾として見えないようにし、精密な計算で大出力一発撃ち」で終了、というのが本当のビーム兵器による艦隊戦なのではないか?と思います。
ええとですね、つまり兵器同士による「打ち合い」や「戦闘状態が一定時間続く」という状況は、現実的にはあまり無い事なのですよ。だから、ガンダム的戦闘はそもそも成立しないと推測できるわけです。
いやできるんだ、ガンダムにケチをつけるなという人が居たのでは、単なる水かけ論になってしまいそうですね。
地上での運動については、重力がありますから、機械的には大きくなるほど難しいわけです。人間相手なんかだと心理的威圧効果はあるでしょうけどね。格闘技なんかみたいに、必ずしも大きいから強い、というわけでもないのですよ。3〜4メートル級なら作れるかもしれませんがね。
えーと、僕は確かに昔トミノさんに喧嘩を売りましたが、今見てみると、ガンダムの人間関係は・・・・テーマとしてはよくできてると思いますよ。逆襲のシャアなんか特に。あれは、「見解の異なる2人のニュータイプがぶつかりあう話」だと思いますよ。
ただ、多くの人には、男性的な攻撃欲求のを具現化した戦争映像として消費されてしまっているのではないですかね。「戦闘シーン中毒」と診断できる人って、アニメ見てる人で多そうですよ。(いや、そういう病名ないけど、病名なんざ作ればある事になるからさ。)
ああ、長文撃つのもけっこうしんどいです。
2008年11月1日土曜日
評価の無意味性 / 性的ファッション考察
・評価の無意味性
永井俊哉氏によると、自分で自分を評価するという事はトートロジカルで評価にならないが、他人に承認される事はトートロジカルではないので評価になるのだという。
出典 ストーカーは何を求めて付きまとうのか
http://www.nagaitosiya.com/a/stalker.html
だがしかし、もう一歩踏み込んで、他者による自己の承認というものは、果たして本当に評価たりえるのだろうか。
自己評価をトートロジカルとするなら、この世に存在する全ての人間は、単体ではトートロジカルな評価しか下せない事になる。つまり、他人と自分はその点において同一という事になる。その同一な他人に評価される事は、自分に自分で評価を下すトートロジーと何ら変わりないものではないのか。答えは明確に是である。
つまり我々は、トートロジーな自己評価と他者評価は変わりないものだという考えを受け入れるか、もしくはその評価方法自体を超越しなければならない。
また、他者による評価が豊富な人でも満足が得られないケースが世界中に山積している事からも、他者による評価はトートロジカルで無意味に等しい事が証明されてしまっている。
この、評価から満足へと至れず、延々と評価を求めるという心理学的なループ地獄から抜け出すためには、心理学的なアプローチで対応するしか無い。その対応策とは、「自分で自分を満足させる」という事に尽きる。他人の評価に依存しても自分を満足させる事ができないのだとしたら、最終的には、自分が「これで満足だ」と満足するしかない事になる。問題は、何をもって「これで満足」と自己評価を下すかにある。
また、他者による評価も、その評価を受け取った自分がその評価をどう評価するかによって評価自体が変わってくるため、最終的には、自分の評価であれ他者の評価であれ、どちらにせよ、最終的には自分で評価を評価するしかないのである。
評価という心理のプロセス自体がトートロジカルであるがゆえに、それについて考察する本文もまたトートロジカルな繰り返し文になるところが面白くはないだろうか。
そして、評価とはすなわち、それに意味というパワーがあるか否かを判定する事でもある。無意味というレッテルを貼る場合、それは評価が良くなかったという事になり、意味があるというレッテルを貼る場合、それは評価が良かったという事になる。
意味か無意味かという評価基準は実にあいまいで、その人が意味があると思えばその対象は意味があるものになるし、その人が無意味だと思えばその対象は無意味なものになる。つまりは、個々人の思い込みや判断の仕方で、世界という対象は意味にも無意味にもなりえる。その、意味か無意味かを日々判別しなければならない不確定性の海に浮かぶのが、我々という自己意識を持った存在なのであるとも言えそうだ。
意味があるか、それとも無意味かという判断が個人にゆだねられたこの世界は、解釈や判断の仕方によって、バラ色にも灰色にもなる。ただし、意味と無意味に対する理解を超越的に知っている人にとっては、対象に意味があると意味付けする事が無意味である事がわかっているので、総じて世界は無意味という事になってしまう。超越的な理解は、時に理解したものに形而上学の悪魔を対峙させる。だが、その超越的な理解を、さらにもう一段超越した理解をする事で、形而上学の悪魔は雲散霧消し、適切な意味付けができるようになる。また、老廃物なども含めて全てに意味や価値があると結論づけた人は、精神病の領域に足を踏み入れている。
不確定な意味と無意味の海の中で、精神的な羅針盤として機能するものはただ一つしかない。それは、これまでの歴史に裏打ちされた「常識」である。ただし、評価や、意味と無意味のパラドックスに巻き込まれて精神を病まないためには、その常識を使う事ができる上で、その常識は歴史的に自然発生したならわしに過ぎないという超越的理解もしていなければならない。
・性的ファッション考察
出典 性的自己擬態の記号論
http://www.nagaitosiya.com/a/sexual_automimicry.html
各々の人生で共通かつ最大のイベントとは、強いて言うならば何であろうか。それはセックスである。セックスとは、お互いの体を密着させて局部を摩擦させる行為である。また、その際には相手の体を見る事が要求される。性器だけしかない人間に欲情できる人間など、この世に居ないからだ。欲情とは、極論、相手の全身の俯瞰によって初めて得られる。
ファッションは、性的アピールの格好の場である。その人が、誰とでもセックスしてもかまわないと思っているかどうかは、扇情的な格好で人ごみを歩けるか否かというテストで判別する事ができるだろう。
例えば、永井俊哉氏の言う擬態的な性器のアピールだけでなく、人間の性欲というものは他の動物に比べて大幅に拡張されているので、野蛮さや、可愛らしさ、知的さといった性格や、太っている、やせている、顔が端正である、ないなどの外観的特徴にまで欲情の対象が広がっている事はあえて言うまでもない事実だ。
この性的アピールを、極限まで特化させている分野とは何だろうか。それは、アニメーションや漫画やゲームといった、ビジュアルをともなったフィクション表現の中である。細かい考察はあえて省かせて頂くが、そういった意味では、コミックマーケット等は「擬態的性欲の祭典(赤信号 みんなで渡れば恐くない、の群集心理つき)」とも言えるだろう。
一方で、こういったいわゆるセックスアピールというものが嫌いな人というのは、ほとんど、あるいはまったくと言って良いほど居ない。美しい相手とのセックスが嫌いだという人というのも、おそらく存在しないだろう。また、性というもの自体がわずらしいと思う一部の僧侶のような人と違って、普通の場合、そういった性欲をわざわざ否定する意味は不在である。
そういった、あからさまなまでの現代のオタク産業についていけない人が居るという事は、すなわち、高度で広範な擬態的セックスアピールを楽しむという事についていけない人も居るという事なのである。高度で広範な擬態的セックスアピールを許容する事ができる人々は、ある意味で、性的理論が拡張され、性の概念が進化した人々だと言う事ができるかもしれない。
そういう意味では、オタクや、デザイナー、クリエイターの類いの多くはその「拡張擬態的セックスアピール」をたしなむ人々であり、ある意味でニュータイプな人類だとさえ言えるかもしれない。(ただし、それをたしなむ事が、他所から見て美しいかどうかは別問題として残る。オタクでありながら、オタクである事を自認しない層の人々が存在する理由は、主にそこに起因しているものと当方は分析する。)
永井俊哉氏によると、自分で自分を評価するという事はトートロジカルで評価にならないが、他人に承認される事はトートロジカルではないので評価になるのだという。
出典 ストーカーは何を求めて付きまとうのか
http://www.nagaitosiya.com/a/stalker.html
だがしかし、もう一歩踏み込んで、他者による自己の承認というものは、果たして本当に評価たりえるのだろうか。
自己評価をトートロジカルとするなら、この世に存在する全ての人間は、単体ではトートロジカルな評価しか下せない事になる。つまり、他人と自分はその点において同一という事になる。その同一な他人に評価される事は、自分に自分で評価を下すトートロジーと何ら変わりないものではないのか。答えは明確に是である。
つまり我々は、トートロジーな自己評価と他者評価は変わりないものだという考えを受け入れるか、もしくはその評価方法自体を超越しなければならない。
また、他者による評価が豊富な人でも満足が得られないケースが世界中に山積している事からも、他者による評価はトートロジカルで無意味に等しい事が証明されてしまっている。
この、評価から満足へと至れず、延々と評価を求めるという心理学的なループ地獄から抜け出すためには、心理学的なアプローチで対応するしか無い。その対応策とは、「自分で自分を満足させる」という事に尽きる。他人の評価に依存しても自分を満足させる事ができないのだとしたら、最終的には、自分が「これで満足だ」と満足するしかない事になる。問題は、何をもって「これで満足」と自己評価を下すかにある。
また、他者による評価も、その評価を受け取った自分がその評価をどう評価するかによって評価自体が変わってくるため、最終的には、自分の評価であれ他者の評価であれ、どちらにせよ、最終的には自分で評価を評価するしかないのである。
評価という心理のプロセス自体がトートロジカルであるがゆえに、それについて考察する本文もまたトートロジカルな繰り返し文になるところが面白くはないだろうか。
そして、評価とはすなわち、それに意味というパワーがあるか否かを判定する事でもある。無意味というレッテルを貼る場合、それは評価が良くなかったという事になり、意味があるというレッテルを貼る場合、それは評価が良かったという事になる。
意味か無意味かという評価基準は実にあいまいで、その人が意味があると思えばその対象は意味があるものになるし、その人が無意味だと思えばその対象は無意味なものになる。つまりは、個々人の思い込みや判断の仕方で、世界という対象は意味にも無意味にもなりえる。その、意味か無意味かを日々判別しなければならない不確定性の海に浮かぶのが、我々という自己意識を持った存在なのであるとも言えそうだ。
意味があるか、それとも無意味かという判断が個人にゆだねられたこの世界は、解釈や判断の仕方によって、バラ色にも灰色にもなる。ただし、意味と無意味に対する理解を超越的に知っている人にとっては、対象に意味があると意味付けする事が無意味である事がわかっているので、総じて世界は無意味という事になってしまう。超越的な理解は、時に理解したものに形而上学の悪魔を対峙させる。だが、その超越的な理解を、さらにもう一段超越した理解をする事で、形而上学の悪魔は雲散霧消し、適切な意味付けができるようになる。また、老廃物なども含めて全てに意味や価値があると結論づけた人は、精神病の領域に足を踏み入れている。
不確定な意味と無意味の海の中で、精神的な羅針盤として機能するものはただ一つしかない。それは、これまでの歴史に裏打ちされた「常識」である。ただし、評価や、意味と無意味のパラドックスに巻き込まれて精神を病まないためには、その常識を使う事ができる上で、その常識は歴史的に自然発生したならわしに過ぎないという超越的理解もしていなければならない。
・性的ファッション考察
出典 性的自己擬態の記号論
http://www.nagaitosiya.com/a/sexual_automimicry.html
各々の人生で共通かつ最大のイベントとは、強いて言うならば何であろうか。それはセックスである。セックスとは、お互いの体を密着させて局部を摩擦させる行為である。また、その際には相手の体を見る事が要求される。性器だけしかない人間に欲情できる人間など、この世に居ないからだ。欲情とは、極論、相手の全身の俯瞰によって初めて得られる。
ファッションは、性的アピールの格好の場である。その人が、誰とでもセックスしてもかまわないと思っているかどうかは、扇情的な格好で人ごみを歩けるか否かというテストで判別する事ができるだろう。
例えば、永井俊哉氏の言う擬態的な性器のアピールだけでなく、人間の性欲というものは他の動物に比べて大幅に拡張されているので、野蛮さや、可愛らしさ、知的さといった性格や、太っている、やせている、顔が端正である、ないなどの外観的特徴にまで欲情の対象が広がっている事はあえて言うまでもない事実だ。
この性的アピールを、極限まで特化させている分野とは何だろうか。それは、アニメーションや漫画やゲームといった、ビジュアルをともなったフィクション表現の中である。細かい考察はあえて省かせて頂くが、そういった意味では、コミックマーケット等は「擬態的性欲の祭典(赤信号 みんなで渡れば恐くない、の群集心理つき)」とも言えるだろう。
一方で、こういったいわゆるセックスアピールというものが嫌いな人というのは、ほとんど、あるいはまったくと言って良いほど居ない。美しい相手とのセックスが嫌いだという人というのも、おそらく存在しないだろう。また、性というもの自体がわずらしいと思う一部の僧侶のような人と違って、普通の場合、そういった性欲をわざわざ否定する意味は不在である。
そういった、あからさまなまでの現代のオタク産業についていけない人が居るという事は、すなわち、高度で広範な擬態的セックスアピールを楽しむという事についていけない人も居るという事なのである。高度で広範な擬態的セックスアピールを許容する事ができる人々は、ある意味で、性的理論が拡張され、性の概念が進化した人々だと言う事ができるかもしれない。
そういう意味では、オタクや、デザイナー、クリエイターの類いの多くはその「拡張擬態的セックスアピール」をたしなむ人々であり、ある意味でニュータイプな人類だとさえ言えるかもしれない。(ただし、それをたしなむ事が、他所から見て美しいかどうかは別問題として残る。オタクでありながら、オタクである事を自認しない層の人々が存在する理由は、主にそこに起因しているものと当方は分析する。)
2008年10月17日金曜日
About final NoteBook Design (2008 T.nakamura)
Somewhat, but unskillfulness English as for I would like to saying you
think that it is transmitted.
As for MacBook of new model being highest from the various sides, as for tension it rose. It was done.
Simply, looking at the keyboard of MacBook, you thought.
If the tap is clicked, you can exclude click feature. If can exclude click feature, being thin, just pulls the thin line the multi touch panel part develops.
Furthermore, back light feature of the keyboard while leaving,
equipping the contact perception type full flat keyboard which
displaces the physical button.
With this, SuperFlat MacBook is possible completely. Because with the notion that where you say, after as for the convex concave surface being left you thought that is just the part which was opened. Furthermore when in order to make simple, closing, the gentle curved surface which is visible is lost. You lose the keyboard, by the fact that the curved surface is lost furthermore somewhat you become slim.
If with this, entry is locked when sleeping and power source off, the necessity which closes display is gone.
Privately, it is not the physical liquid crystal, just the picture in space the float to have done, you think (having floated, that it is desirable). Still, however technically it probably is impossible. By the way, because one board like tablet PC becomes the shape which you peer, it is difficult to use with the desk.
In other words being to be one board where the eye which was seen is complete it does MacBook which I finally want.
In the computer, as for the physical switch however it is to think that it becomes without necessity anymore gradually, you cannot resign everyone yet to there. Therefore, the step like latest MacBook becomes necessary. It hops with the first generation, MacBook with existence MacBook step, wants jumping in the next generation MacBook. In other words, it is rear taking a rest to shape of ideal. Directivity of evolution is correct clearly. Thing of the rival in the air and is not
perplexed wants advancing.
As for the last form where design arrives, knowledge and others we want closing the notion that where in world high function, it is something which paddings the high performance in the super flat design which has texture of the material and material feeling. At that time, we want displacing all decoration. As for irregularity when other than I/F it is not completely. Final impact of modern design type is there.
And, as for the road which MacBook of the following generation traces, doing from the way, there is only there. Goal is close. In addition, it is the large correct answer which is possible to use also the technique, uni- body even next.
As for advice to last step there is a handle which still goes.
If it is complete radio possible to power source, it displaces all wire I/F and the to full flat two ton color abolishes the modification rubber foot in the aluminum, and white 3 makes the apex of the lenient curve of the extent where the air is not attached and supports there (is not 4 dots and by the fact that it makes 3 dots, plane surface which can be grounded increases) *
* As for 3 dots, foreward 1 dot, on left and right of rear 2
dots.
When finally, MacBook DP there is no frame with has floated gently on MacBook Flat, you think that it is best. Because, insistence of the frame is least therefore the personal computer whose MacBook. The ones of the frame being gone finally, if it has floated, it is the casethat you think that it is good.
Idea of this article, conception does not care, having using only the Apple, is. In other words the reason, semi open source. Simple until with the philosophy which is said is carried out, it is the rear one step. Persevering apple design team.
So, when making entirely MacBook in this article, the mail please do.
(C) Takeshi Nakamura, late 2008
think that it is transmitted.
As for MacBook of new model being highest from the various sides, as for tension it rose. It was done.
Simply, looking at the keyboard of MacBook, you thought.
If the tap is clicked, you can exclude click feature. If can exclude click feature, being thin, just pulls the thin line the multi touch panel part develops.
Furthermore, back light feature of the keyboard while leaving,
equipping the contact perception type full flat keyboard which
displaces the physical button.
With this, SuperFlat MacBook is possible completely. Because with the notion that where you say, after as for the convex concave surface being left you thought that is just the part which was opened. Furthermore when in order to make simple, closing, the gentle curved surface which is visible is lost. You lose the keyboard, by the fact that the curved surface is lost furthermore somewhat you become slim.
If with this, entry is locked when sleeping and power source off, the necessity which closes display is gone.
Privately, it is not the physical liquid crystal, just the picture in space the float to have done, you think (having floated, that it is desirable). Still, however technically it probably is impossible. By the way, because one board like tablet PC becomes the shape which you peer, it is difficult to use with the desk.
In other words being to be one board where the eye which was seen is complete it does MacBook which I finally want.
In the computer, as for the physical switch however it is to think that it becomes without necessity anymore gradually, you cannot resign everyone yet to there. Therefore, the step like latest MacBook becomes necessary. It hops with the first generation, MacBook with existence MacBook step, wants jumping in the next generation MacBook. In other words, it is rear taking a rest to shape of ideal. Directivity of evolution is correct clearly. Thing of the rival in the air and is not
perplexed wants advancing.
As for the last form where design arrives, knowledge and others we want closing the notion that where in world high function, it is something which paddings the high performance in the super flat design which has texture of the material and material feeling. At that time, we want displacing all decoration. As for irregularity when other than I/F it is not completely. Final impact of modern design type is there.
And, as for the road which MacBook of the following generation traces, doing from the way, there is only there. Goal is close. In addition, it is the large correct answer which is possible to use also the technique, uni- body even next.
As for advice to last step there is a handle which still goes.
If it is complete radio possible to power source, it displaces all wire I/F and the to full flat two ton color abolishes the modification rubber foot in the aluminum, and white 3 makes the apex of the lenient curve of the extent where the air is not attached and supports there (is not 4 dots and by the fact that it makes 3 dots, plane surface which can be grounded increases) *
* As for 3 dots, foreward 1 dot, on left and right of rear 2
dots.
When finally, MacBook DP there is no frame with has floated gently on MacBook Flat, you think that it is best. Because, insistence of the frame is least therefore the personal computer whose MacBook. The ones of the frame being gone finally, if it has floated, it is the casethat you think that it is good.
Idea of this article, conception does not care, having using only the Apple, is. In other words the reason, semi open source. Simple until with the philosophy which is said is carried out, it is the rear one step. Persevering apple design team.
So, when making entirely MacBook in this article, the mail please do.
(C) Takeshi Nakamura, late 2008
2008年10月10日金曜日
建築と平面についての考察および哲学的余談 ver2.0
新曲「synthesis diver」
http://hogehoge-podcast.seesaa.net/article/107874156.html
BGMとしてお使いください。
建築物は、古今東西どこの建物も、平面に接地される事を前提としている。平面に接地されていない建物というのは基本的にない。すなわち、建築を建てるにはまず建てる場所に平面を確保する事から始めなければならない。斜めになっている立地なら、土を盛ったり削ったりしてわざわざ平面にしなければならない。ここでいう平面とは、地球の重力の方向に対して平行な平面の事である。(当方ではこれを仮に「G平面」と名付ける。)
平面は、歩くときにストレスが最小であると同時に、ものを安定させて置く事ができる。考えてみれば、傾いた家では、コップを置く事さえも不可能だ。傾いた机や椅子では、人は落ち着いていられないだろう。人は、生活する、そこに居るという事に関して、平面に安心感を抱くようにできているのだ。家具等も、四角形で統一する事によって、収納の無駄ができないように人類は進化してきた。例えば丸い部屋に、四角いタンスは置きにくいしデッドスペースができてしまい、また安定もしない。
ただし、家具と建築を完全一体型として全て一から設計する場合においては、自由なデザインが可能であり、この限りではない。
そして、建設される建築物はキューブを基本図形としている。自然界に立方体や直方体などのキューブは存在しないのに、人はそれを建てる事を好む。つまり、たいらではない土地をわざわざ平面にならし、そこにキューブを建ててそこに居たいという事になる。これには何かそういった根源的な欲求でも存在しているのだろうか。
しかしながら、完全な平面と完全なキューブの、いわゆるホワイトキューブの住宅などは、例えば子供が家について苦言を呈するなど、人によっては非常に居心地の悪いものとなってしまうから不思議である。
かといって、ホワイトキューブは生活感ゼロで落ち着かないからと言って、無駄な曲面や自然界の色を取り入れた建築を作る人も居るものの、残念ながらこういった建築は全く美しくないと個人的には感じる。しかし同時に、ホワイトキューブ住宅特有の居心地の悪さというものも人並みに感じる事ができる。
ホワイトキューブや、単純図形を用いたシンプルモダンの建築は、どう見ても明らかに人工物であって、デジタルの匂いがする。CGで単純図形を描く事は簡単だが、それをそのまま実現させたような形をしている。こういったシンプル系の建築は、言わば自然環境と対立している。対立する周囲と建築という構図は、それ自体矛盾ではあるものの、ホワイトキューブくらいに思い切りシンプルにしてしまえば、逆に引き立って美しく見える。ただ、建築雑誌等ではあまり紹介されない部分であるが、平面の立地を作った時に生じた「無理」が必ずどこかに生じてしまう。そして、そういった部分は美しくない。また、シンプルモダンの建築は、竣工の時が一番美しく、その後だんだんと、シンプルではない周囲の環境、例えば雨風などにさらされて形がくずれていったり、変色していったりする。シンプルモダンのデザインは汚れが非常に目立ってしまうのも難点に挙げられる。故に、シンプルモダンの建築には通常以上の耐久強度が必要になり、また、汚れを落としやすい材質を使うべきである。
対して、建築の周囲の自然環境に妥協して、曲線を取り入れた妥協型建築は、崩壊しにくく、汚れもさほど目立たないが、洗練された印象を持たせる事は非常に難しい。シンプルモダンと比較すると、どうしても野暮ったい印象になってしまう事は避けられない。
人が自然と調和して住むには妥協型のほうが適しているであろうが、そこにデザイン性を持たせる事は困難になる。このように、どちらにしてもよろしくないというジレンマを建築物は抱えている。
このジレンマを解決するためのキーワードはいくつかある。
・平面を作るという事に関して寛容な接地の仕方をする
・汚れを落としやすい壁、床などの材質にする
・長期的に見て環境が建築に与える影響を考える
平面に関しては、そもそも長く平面が確保されていた場所にしか建築をしないという方法もある。
曲面の使用に関してもいくつかキーワードがある。
・無意味な曲面、心理的効果を狙った曲面は不要で美しくないので使わない
・住宅専用の家具との融合を目的とした機能的な曲面は採用すべきである
また、たいらではない場所に平面を確保する時にどうしてもできてしまう不自然な段差は、「ひな壇もしくは階段型」にするという解決策もある。ただ、この部分に関しては、完璧な処理が難しいので、ある程度諦めたほうが良いだろう。
我々はまだ新しい建築のあり方にについて考察と改良の余地が多分に残されており、現状の建築もおそらく正解ではない。これからも試行錯誤が必要になるだろう。いや、完璧な建築など存在しないのかもしれない。人間が完璧な構造の存在ではないように、人間が考えて作った、人間の器たる建築もまた、不完全な構造で、いつかは壊れるものなのだ。「周囲の環境になじみつつ、デザイン性も損なわない建築を作れ」という命題は、非常に難しい、酷な問題である事がわかる。
あとは哲学的な余談になるが、この命題は人間の精神にも当てはめる事ができる。「周囲の人間関係になじみつつ、デザイナーとして優れなさい」という命題もまた、非常に難しい酷な問題である。何がこれらの問題を難しくしているかと言うと、本質的に「変わりつつ変わらないでいなさい」という矛盾が与えられているからである。人間という不定形の物体もまた、変わりつつ変わらないという命題を生まれながらにして抱えている。日々、体と心の形は変わっていくものの、その人が「○○さん」である事は変わらないでいようとしている。また素粒子レベルでは、3時間経てば別人のようだ。
また、物事を突き詰めて考えると、どんな分野でも最後の敵として「矛盾」が出てくる。しかし同時に、その矛盾そのものが真実であるのだ。世界は矛盾そのものであり、不確定性そのものである。ダイナミックとスタティックが同居していて、同時にそのどちらでもない。この矛盾を理解できて、なおかつ受け入れられないクリエイターは苦しむ事になるだろう。この世の絶対的な矛盾を受け入れるには、いわゆる(心の)器の大きさが必要になるのかもしれない。
逆に、矛盾の存在しない世界には相対性というものも生まれないので、世界そのものが最初から成立しない事になる。矛盾とは、世界そのものなのだ。そして我々は、世界そのものの一部、構成部品である。これはおそらく全ての人にとって大変残念な現実であるが、我々はこの不完全さとあいまいさ、そして永久に保証されない安定性を内包し、かつ常に相対しながら日々を暮らさなければならない宿命なのである。これは、「人類に残念なお知らせ」としか言いようが無い事であり、矛盾から世界を作った何者かの責任は極めて甚大である。よって、世界を作った何者かと、それに属するものは、人類を助けなければならない義務が自動的に発生していると考えられる。そして過去から現在に至るまで人類が救済されていないのは、そのグループの不手際と考える事ができ、世界はリコールされるべき製品であるとも考える事ができる。普通、電化製品の場合、リコールされれば回収されて修理されるが、現状ではそういった動きは無い。つまり、現状の世界をリコールされるべき電化製品だとすると、リコール隠しという怠慢、責任放棄に他ならない。我々には、「大いなるクリエイターに」我々と世界のリコール、修理を求める権利がある。客観的に見ても、これは一方的な契約不履行、もしくは大規模なモラルハザードが起こっている状態と言えると思う。
あえて私は言おう。
そもそも、産めば不完全な障害児になり、苦難の人生を歩む事が、産む前からわかっていた赤ん坊「世界 人類」くんを、産まなければよかったのではないか?と。
最終的に、今日のように育児放棄し、結果的に世界 人類さんが苦しむくらいなら、最初から産まないほうが赤ん坊にとって良かったであろう事は明白だ。
しかし、もし「これから世界が救済される予定」だというなら話は別になってくる。我々にできる事は、その救済を祈る事と、その時に救済される人間であろうと心がけ、実行する事である。
http://hogehoge-podcast.seesaa.net/article/107874156.html
BGMとしてお使いください。
建築物は、古今東西どこの建物も、平面に接地される事を前提としている。平面に接地されていない建物というのは基本的にない。すなわち、建築を建てるにはまず建てる場所に平面を確保する事から始めなければならない。斜めになっている立地なら、土を盛ったり削ったりしてわざわざ平面にしなければならない。ここでいう平面とは、地球の重力の方向に対して平行な平面の事である。(当方ではこれを仮に「G平面」と名付ける。)
平面は、歩くときにストレスが最小であると同時に、ものを安定させて置く事ができる。考えてみれば、傾いた家では、コップを置く事さえも不可能だ。傾いた机や椅子では、人は落ち着いていられないだろう。人は、生活する、そこに居るという事に関して、平面に安心感を抱くようにできているのだ。家具等も、四角形で統一する事によって、収納の無駄ができないように人類は進化してきた。例えば丸い部屋に、四角いタンスは置きにくいしデッドスペースができてしまい、また安定もしない。
ただし、家具と建築を完全一体型として全て一から設計する場合においては、自由なデザインが可能であり、この限りではない。
そして、建設される建築物はキューブを基本図形としている。自然界に立方体や直方体などのキューブは存在しないのに、人はそれを建てる事を好む。つまり、たいらではない土地をわざわざ平面にならし、そこにキューブを建ててそこに居たいという事になる。これには何かそういった根源的な欲求でも存在しているのだろうか。
しかしながら、完全な平面と完全なキューブの、いわゆるホワイトキューブの住宅などは、例えば子供が家について苦言を呈するなど、人によっては非常に居心地の悪いものとなってしまうから不思議である。
かといって、ホワイトキューブは生活感ゼロで落ち着かないからと言って、無駄な曲面や自然界の色を取り入れた建築を作る人も居るものの、残念ながらこういった建築は全く美しくないと個人的には感じる。しかし同時に、ホワイトキューブ住宅特有の居心地の悪さというものも人並みに感じる事ができる。
ホワイトキューブや、単純図形を用いたシンプルモダンの建築は、どう見ても明らかに人工物であって、デジタルの匂いがする。CGで単純図形を描く事は簡単だが、それをそのまま実現させたような形をしている。こういったシンプル系の建築は、言わば自然環境と対立している。対立する周囲と建築という構図は、それ自体矛盾ではあるものの、ホワイトキューブくらいに思い切りシンプルにしてしまえば、逆に引き立って美しく見える。ただ、建築雑誌等ではあまり紹介されない部分であるが、平面の立地を作った時に生じた「無理」が必ずどこかに生じてしまう。そして、そういった部分は美しくない。また、シンプルモダンの建築は、竣工の時が一番美しく、その後だんだんと、シンプルではない周囲の環境、例えば雨風などにさらされて形がくずれていったり、変色していったりする。シンプルモダンのデザインは汚れが非常に目立ってしまうのも難点に挙げられる。故に、シンプルモダンの建築には通常以上の耐久強度が必要になり、また、汚れを落としやすい材質を使うべきである。
対して、建築の周囲の自然環境に妥協して、曲線を取り入れた妥協型建築は、崩壊しにくく、汚れもさほど目立たないが、洗練された印象を持たせる事は非常に難しい。シンプルモダンと比較すると、どうしても野暮ったい印象になってしまう事は避けられない。
人が自然と調和して住むには妥協型のほうが適しているであろうが、そこにデザイン性を持たせる事は困難になる。このように、どちらにしてもよろしくないというジレンマを建築物は抱えている。
このジレンマを解決するためのキーワードはいくつかある。
・平面を作るという事に関して寛容な接地の仕方をする
・汚れを落としやすい壁、床などの材質にする
・長期的に見て環境が建築に与える影響を考える
平面に関しては、そもそも長く平面が確保されていた場所にしか建築をしないという方法もある。
曲面の使用に関してもいくつかキーワードがある。
・無意味な曲面、心理的効果を狙った曲面は不要で美しくないので使わない
・住宅専用の家具との融合を目的とした機能的な曲面は採用すべきである
また、たいらではない場所に平面を確保する時にどうしてもできてしまう不自然な段差は、「ひな壇もしくは階段型」にするという解決策もある。ただ、この部分に関しては、完璧な処理が難しいので、ある程度諦めたほうが良いだろう。
我々はまだ新しい建築のあり方にについて考察と改良の余地が多分に残されており、現状の建築もおそらく正解ではない。これからも試行錯誤が必要になるだろう。いや、完璧な建築など存在しないのかもしれない。人間が完璧な構造の存在ではないように、人間が考えて作った、人間の器たる建築もまた、不完全な構造で、いつかは壊れるものなのだ。「周囲の環境になじみつつ、デザイン性も損なわない建築を作れ」という命題は、非常に難しい、酷な問題である事がわかる。
あとは哲学的な余談になるが、この命題は人間の精神にも当てはめる事ができる。「周囲の人間関係になじみつつ、デザイナーとして優れなさい」という命題もまた、非常に難しい酷な問題である。何がこれらの問題を難しくしているかと言うと、本質的に「変わりつつ変わらないでいなさい」という矛盾が与えられているからである。人間という不定形の物体もまた、変わりつつ変わらないという命題を生まれながらにして抱えている。日々、体と心の形は変わっていくものの、その人が「○○さん」である事は変わらないでいようとしている。また素粒子レベルでは、3時間経てば別人のようだ。
また、物事を突き詰めて考えると、どんな分野でも最後の敵として「矛盾」が出てくる。しかし同時に、その矛盾そのものが真実であるのだ。世界は矛盾そのものであり、不確定性そのものである。ダイナミックとスタティックが同居していて、同時にそのどちらでもない。この矛盾を理解できて、なおかつ受け入れられないクリエイターは苦しむ事になるだろう。この世の絶対的な矛盾を受け入れるには、いわゆる(心の)器の大きさが必要になるのかもしれない。
逆に、矛盾の存在しない世界には相対性というものも生まれないので、世界そのものが最初から成立しない事になる。矛盾とは、世界そのものなのだ。そして我々は、世界そのものの一部、構成部品である。これはおそらく全ての人にとって大変残念な現実であるが、我々はこの不完全さとあいまいさ、そして永久に保証されない安定性を内包し、かつ常に相対しながら日々を暮らさなければならない宿命なのである。これは、「人類に残念なお知らせ」としか言いようが無い事であり、矛盾から世界を作った何者かの責任は極めて甚大である。よって、世界を作った何者かと、それに属するものは、人類を助けなければならない義務が自動的に発生していると考えられる。そして過去から現在に至るまで人類が救済されていないのは、そのグループの不手際と考える事ができ、世界はリコールされるべき製品であるとも考える事ができる。普通、電化製品の場合、リコールされれば回収されて修理されるが、現状ではそういった動きは無い。つまり、現状の世界をリコールされるべき電化製品だとすると、リコール隠しという怠慢、責任放棄に他ならない。我々には、「大いなるクリエイターに」我々と世界のリコール、修理を求める権利がある。客観的に見ても、これは一方的な契約不履行、もしくは大規模なモラルハザードが起こっている状態と言えると思う。
あえて私は言おう。
そもそも、産めば不完全な障害児になり、苦難の人生を歩む事が、産む前からわかっていた赤ん坊「世界 人類」くんを、産まなければよかったのではないか?と。
最終的に、今日のように育児放棄し、結果的に世界 人類さんが苦しむくらいなら、最初から産まないほうが赤ん坊にとって良かったであろう事は明白だ。
しかし、もし「これから世界が救済される予定」だというなら話は別になってくる。我々にできる事は、その救済を祈る事と、その時に救済される人間であろうと心がけ、実行する事である。
2008年9月18日木曜日
続・コンピュータ
先日の記事が理解できれば、読者はかなりコンピュータがわかるようになったと思うのだが、その続きである。実は、CPU内にチップセットを内蔵してしまったものがある。
さらに、実はCPUにはメモりも埋め込まれており、CPUのクロックと同じ速度で動作する。これは1次キャッシュ、2次キャッシュ等があり、その下にメモリがある。さらにHDDもメモリとして使う事がある、4〜5段式になっている。
つまり、本当は、全ての要素がシステム内で最高速度であるCPUクロックで動作している(全てが統合されている)のが理想的なわけだ。もしそうなれば、基盤というものは大幅に縮小され、ワンチップで済む。
しかし、1つのメーカーが全ての部品を作っているわけではなく、資本主義上の大人の事情がからみあって、完全な統合システムには至っていないのが現実なのだ。
さらに、実はCPUにはメモりも埋め込まれており、CPUのクロックと同じ速度で動作する。これは1次キャッシュ、2次キャッシュ等があり、その下にメモリがある。さらにHDDもメモリとして使う事がある、4〜5段式になっている。
つまり、本当は、全ての要素がシステム内で最高速度であるCPUクロックで動作している(全てが統合されている)のが理想的なわけだ。もしそうなれば、基盤というものは大幅に縮小され、ワンチップで済む。
しかし、1つのメーカーが全ての部品を作っているわけではなく、資本主義上の大人の事情がからみあって、完全な統合システムには至っていないのが現実なのだ。
2008年9月17日水曜日
中村剛志の誰でもわかる?簡単コンピュータ概論です。
この記事では、意外なほど簡単で単純なコンピュータの概要を、初心者にもわかりやすく論ずる。心配しなくても、あっけないほど早く終わってしまう講義です。コンピュータなんてその程度のものなのです。これが人間の英知だなんて言う人は、ばかげているとずっと思ってきました。どうしてそう思うかは読めばおそらくわかるでしょう。
■一般的な個人向けコンピュータの中身はどうなっている?
図示すると、今のパーソナルコンピュータはこんな感じである。
画像をクリックすると拡大します。1280×800Pixelです。
ややてきとうな図で申し訳ないですが、要はほとんどこれだけです。

赤で示した「チップセット」というのが、システムの全体を管理している。CPU、CPUと言われがちだが、全体の入出力の管理や取り決めを行っているのはチップセットである。また、青の点線でつながっているBIOS, EFIは、さらに低いレベルで入出力を管理している。チップセットは言わば「中央管理局」みたいな感じである。
CPUが主役と言われる事が多いのは、Programからの命令を主に計算するのがCPUだからであって、CPUが何でもこなしているわけではない。サウンド関連の処理はサウンドカード、オーディオボード上のSound Processing Unit、ビジュアル関連の処理はビデオカード上のGPUが担当している。CPUは何でも屋さんだが、言わばその道のエキスパートに任せたほうが良い処理は他へと回される。また、低価格なモデルでは、チップセットの中に映像、音声処理チップを埋め込んでしまったものが多い。またProcessor、プロセッサとは、計算を行う装置の総称である。
コンピュータの進化に伴い、BIOSはあまりその意味をなさなくなってきている。10年後にはBIOS, EFIは無くなっているかもしれない。
また、プログラムはメインメモリの中に展開され、CPUによって実行される。そしてまたチップセットに戻り、チップセットから最終的にディスプレイやスピーカーに出力されて、人間の耳と目に届く。とにもかくにも、チップセットが中心的な役割である。USBポートやLANポートもチップセットにつながっている。
また図では省略したが、ビデオのエンコードなどを行う専用プロセッサ等が、拡張スロットに刺す形で加わる事もある。それから、電源も省いているが、電源は全体の動作に影響を与えるので、良いものを選んだほうが良い。
そして、これらの部品は、外付けのデバイス(電子機器の事)でない限り、本体内部のプリント基盤(PCB製のロジックボード、マザーボード)の上に実装されている。
ハードディスクには、ネットワークから受け取ったデータや生成したデータなどを保存しておく保管庫として主に機能する。接続先はもちろんまたもやチップセットである。また、チップセットは1個の場合と2個の場合がある。2個の場合は、メモリとCPUを管理するノースブリッジ、入出力を管理するサウスブリッジに分かれている事が多い。
そして、こういった計算機体系を操作するために必須なのがインターフェイス、厳密には「Human Interface Device(マウスとかキーボードとかタッチパネルとか)である。数字だらけでは人間には難しいので、イラスト(フォルダとかアイコンとか)で見えるような仕組みになっている。この仕組みを(Graphical User Interface)という。
講義は以上。後は余談になる。どう、かんたんでしょ?
インターフェイスは、極論どんな形でも操作さえできればかまわないので、これからも新しいインターフェイスが生まれてくるだろう。というか、十分な計算速度と容量を得た今、コンピュータが進歩できるポイントは、インターフェイスくらいしかない。現状の「ノイマン型コンピュータ(地球上のほぼ全てのコンピュータの形式)」は、こんなにもう未知の可能性の無いものなのだ。
また、コンピュータはスイッチのオンとオフしか理解できないおバカさんである。そのため、コンピュータ内の情報の最小単位はbitである。コンピュータが便利なのは、コンピュータが賢いからでは決してない。プログラマーの頭が良いのである。プログラムの恩恵にあずかるという事は言わば、頭の良い人の考え方を使うような事であって、コンピュータはその仲介役をしているにすぎないわけだ。ある意味では、基礎的な部分ではそろばんよりも頭が悪いとも言えます。
信号のオンオフは、そろばんと違って、超高速で切り替える事ができるので(この切り替えの速度をクロックという)、その上でプログラマーが頭を悩ませた結果、便利なものになったのです。
あと、OSというものがこれらの要素をうまく連結させて使えるように下地を整えてくれているわけで、その上のミドルウェア(中間業者)を通じてソフト(アプリケーション)が実行されているというわけ。
後は、見てくれと操作感を変えていくくらいの事しかできない。Wiiなどがその例である。後は、BTを使った量子コンピュータなどの、全く新しいコンピュータの登場を待つしか無いのです。人間の脳をモデルにした人工知能が開発中なので、人間のように自然に接する事のできるコンピュータが早くできるといいですね。今のコンピュータはやはり基本的な作りが馬鹿すぎてイライラさせられます。ちなみに人間の脳の処理能力は、現代の超速いスーパーコンピュータでもたちうちできない速度です。立って歩いて話すというのは、大変な計算力が必要なのですよ。
そうは言いつつも、10月上旬から中旬発表とうわさされている新しいシルバーの薄いMacBookがやはり気になっています。早く実物を見て触りたいものです。
(ところで、MacBook AirもHDDが120GBになるそうですね?)
■一般的な個人向けコンピュータの中身はどうなっている?
図示すると、今のパーソナルコンピュータはこんな感じである。
画像をクリックすると拡大します。1280×800Pixelです。
ややてきとうな図で申し訳ないですが、要はほとんどこれだけです。
赤で示した「チップセット」というのが、システムの全体を管理している。CPU、CPUと言われがちだが、全体の入出力の管理や取り決めを行っているのはチップセットである。また、青の点線でつながっているBIOS, EFIは、さらに低いレベルで入出力を管理している。チップセットは言わば「中央管理局」みたいな感じである。
CPUが主役と言われる事が多いのは、Programからの命令を主に計算するのがCPUだからであって、CPUが何でもこなしているわけではない。サウンド関連の処理はサウンドカード、オーディオボード上のSound Processing Unit、ビジュアル関連の処理はビデオカード上のGPUが担当している。CPUは何でも屋さんだが、言わばその道のエキスパートに任せたほうが良い処理は他へと回される。また、低価格なモデルでは、チップセットの中に映像、音声処理チップを埋め込んでしまったものが多い。またProcessor、プロセッサとは、計算を行う装置の総称である。
コンピュータの進化に伴い、BIOSはあまりその意味をなさなくなってきている。10年後にはBIOS, EFIは無くなっているかもしれない。
また、プログラムはメインメモリの中に展開され、CPUによって実行される。そしてまたチップセットに戻り、チップセットから最終的にディスプレイやスピーカーに出力されて、人間の耳と目に届く。とにもかくにも、チップセットが中心的な役割である。USBポートやLANポートもチップセットにつながっている。
また図では省略したが、ビデオのエンコードなどを行う専用プロセッサ等が、拡張スロットに刺す形で加わる事もある。それから、電源も省いているが、電源は全体の動作に影響を与えるので、良いものを選んだほうが良い。
そして、これらの部品は、外付けのデバイス(電子機器の事)でない限り、本体内部のプリント基盤(PCB製のロジックボード、マザーボード)の上に実装されている。
ハードディスクには、ネットワークから受け取ったデータや生成したデータなどを保存しておく保管庫として主に機能する。接続先はもちろんまたもやチップセットである。また、チップセットは1個の場合と2個の場合がある。2個の場合は、メモリとCPUを管理するノースブリッジ、入出力を管理するサウスブリッジに分かれている事が多い。
そして、こういった計算機体系を操作するために必須なのがインターフェイス、厳密には「Human Interface Device(マウスとかキーボードとかタッチパネルとか)である。数字だらけでは人間には難しいので、イラスト(フォルダとかアイコンとか)で見えるような仕組みになっている。この仕組みを(Graphical User Interface)という。
講義は以上。後は余談になる。どう、かんたんでしょ?
インターフェイスは、極論どんな形でも操作さえできればかまわないので、これからも新しいインターフェイスが生まれてくるだろう。というか、十分な計算速度と容量を得た今、コンピュータが進歩できるポイントは、インターフェイスくらいしかない。現状の「ノイマン型コンピュータ(地球上のほぼ全てのコンピュータの形式)」は、こんなにもう未知の可能性の無いものなのだ。
また、コンピュータはスイッチのオンとオフしか理解できないおバカさんである。そのため、コンピュータ内の情報の最小単位はbitである。コンピュータが便利なのは、コンピュータが賢いからでは決してない。プログラマーの頭が良いのである。プログラムの恩恵にあずかるという事は言わば、頭の良い人の考え方を使うような事であって、コンピュータはその仲介役をしているにすぎないわけだ。ある意味では、基礎的な部分ではそろばんよりも頭が悪いとも言えます。
信号のオンオフは、そろばんと違って、超高速で切り替える事ができるので(この切り替えの速度をクロックという)、その上でプログラマーが頭を悩ませた結果、便利なものになったのです。
あと、OSというものがこれらの要素をうまく連結させて使えるように下地を整えてくれているわけで、その上のミドルウェア(中間業者)を通じてソフト(アプリケーション)が実行されているというわけ。
後は、見てくれと操作感を変えていくくらいの事しかできない。Wiiなどがその例である。後は、BTを使った量子コンピュータなどの、全く新しいコンピュータの登場を待つしか無いのです。人間の脳をモデルにした人工知能が開発中なので、人間のように自然に接する事のできるコンピュータが早くできるといいですね。今のコンピュータはやはり基本的な作りが馬鹿すぎてイライラさせられます。ちなみに人間の脳の処理能力は、現代の超速いスーパーコンピュータでもたちうちできない速度です。立って歩いて話すというのは、大変な計算力が必要なのですよ。
そうは言いつつも、10月上旬から中旬発表とうわさされている新しいシルバーの薄いMacBookがやはり気になっています。早く実物を見て触りたいものです。
(ところで、MacBook AirもHDDが120GBになるそうですね?)
2008年9月3日水曜日
2008年8月29日金曜日
低エントロピーな人工物と風景の良い例
この記事は永井俊哉氏の「エントロピーの理論」を基礎としている。詳しくはこちらを参照されたい。
氏はこうも発言しています。
>しかし人間が、環境の熱エントロピーを
>増大させながら創り出している
>低エントロピーは、決して身体や建築物といった
>物質レベルでの資源だけではない。我々が創り出す意味の世界も、
>無意味という無秩序を否定しているという点で、
>低エントロピーなのである。
中略
>たしかにエントロピーはエントロピーであって、他の概念に
>置き換えることは難しいのですが、最も汎用性がある概念は、
>不確定性だと私は考えています。
>散らかっている部屋は無秩序であり、私たちは「汚い」
>と感じますが、
>そういう部屋では、どこに何があるのかわからないので、
>不確定性が大きいといえます。
>反対に、整理整頓された部屋には秩序があり、私たちは
>それを「きれい」と
>感じます。その部屋では、どこに何があるのか
>わかりやすいので、不確定性が小さいともいえます。
出典 エントロピーの法則
このような視点から見て、
建築物として挙げられる良い例としては、以下のものが挙げられる。
ホワイトコートの家 / 小川晋一都市建築設計事務所
ホワイトモノリス / 榎本弘之建築研究所
金沢21世紀美術館 / SANAA
エントロピーを複雑さの指標とするならば、シンプルである事、不必要なディティールを排している事はすなわち低エントロピーであるという事である。そういった理由でいずれもシンプルモダンに分類される白い建築を選んだが、白は色であっても、有彩色ではない。モノトーンの中でも、人がものをかくと言えば普通は白い紙である事から、白という色は人にとって低エントロピーである事がわかる。(何かを紙に描き始める、つまり紙の上のエントロピーを上げるにはまず、低エントロピーな紙、すなわち白い紙が必要だというわけである。)
また、こういった非常に低エントロピーな(つまり価値のある)建築の中では、高エントロピーのものを置くと非常に汚く見える。ゆえに、そこに置く椅子やテーブル、トイレといった生活必需品やコンピュータもまた、低エントロピーな品でなくてはならない。こういった低エントロピーな建築を雑誌等で写真によって紹介する際に、よく置かれるコンピュータの筆頭が近年のMacである。これもシンプルモダン(低エントロピー)な外観だから、見た目のエントロピーを高くしない。
往々にして、シンプルさと清潔感が特徴の当方の作品は、よく「かっこいい」と評される事が多い。海外の人の反応は「Cool」などである。シンプルな構造をなぜ人は瞬間的に「かっこいい、Cool」と判断するのだろうか。つまりは、永井俊哉氏の言う所の「複雑さが排された低エントロピーできれいな構造」である事を瞬間的に判断しているから、という部分が大きいのだろうと当方では考えている。Coolとは冷たいという意味でもあり、本来の熱力学的に「これは低エントロピー」と言っているも同然であるから面白い。
また、当方の写真で言うならば、
「意図を可能な限りはっきりさせる事」
「余計なものは入れない事」
「選択した以外のものはばっさり捨てる事」
「カラーマッチングも意図が伝わりやすいように調整」
「意図はできるだけ少なくする事」
と、MacBook DPのコツはどれも「低エントロピーな写真にするためには、どうしたらいいか」という事をいろいろと考えている事がわかる。おそらく、こういった極端なまでの思考が写真に現れているからこそ、あのサイトは「(シンプルモダンなMacに)似合っていない」というツッコミが入らないのであろう。つまり写真が低エントロピーなのである。
(自画自賛気味であるが、私は生まれつき、あまり日本人らしくそういう所を遠慮する性格・気質ではないのかもしれない。)
言うならば、「デザインとは低エントロピー化であり、科学であると言ってしまっても良いくらい」だと個人的には思っている。
ゆえに、かっこいいと評される作品を創りたければ「エントロピーとは何か(特に低エントロピーとは何か)」を知る必要があるのだ。(できるアーティストは、エントロピーという言葉は知らなくとも本能的にこの事を知っているのではないだろうか。)
当方の目から見れば、ぐちゃぐちゃとして、整理整頓されていない表現をしようとするデザイナーはまだデザイナーではない。高エントロピーな要素を潔くばっさりと切り捨てて「低エントロピー感」を演出できるのが真のデザイナーであると当方は考えている。
こういった視点から見て、何人か「低エントロピーなデザインを理解して実行している」デザイナーの筆頭として、個人的には深澤直人氏が挙げられると思う。また、Appleのデザインチーム(ジョナサン・アイブ氏など)も相当に優秀である。
そういうわけで、永井俊哉氏には、Macが似合うのではないかと勝手に考えている。
氏はこうも発言しています。
>しかし人間が、環境の熱エントロピーを
>増大させながら創り出している
>低エントロピーは、決して身体や建築物といった
>物質レベルでの資源だけではない。我々が創り出す意味の世界も、
>無意味という無秩序を否定しているという点で、
>低エントロピーなのである。
中略
>たしかにエントロピーはエントロピーであって、他の概念に
>置き換えることは難しいのですが、最も汎用性がある概念は、
>不確定性だと私は考えています。
>散らかっている部屋は無秩序であり、私たちは「汚い」
>と感じますが、
>そういう部屋では、どこに何があるのかわからないので、
>不確定性が大きいといえます。
>反対に、整理整頓された部屋には秩序があり、私たちは
>それを「きれい」と
>感じます。その部屋では、どこに何があるのか
>わかりやすいので、不確定性が小さいともいえます。
出典 エントロピーの法則
このような視点から見て、
建築物として挙げられる良い例としては、以下のものが挙げられる。
ホワイトコートの家 / 小川晋一都市建築設計事務所
ホワイトモノリス / 榎本弘之建築研究所
金沢21世紀美術館 / SANAA
エントロピーを複雑さの指標とするならば、シンプルである事、不必要なディティールを排している事はすなわち低エントロピーであるという事である。そういった理由でいずれもシンプルモダンに分類される白い建築を選んだが、白は色であっても、有彩色ではない。モノトーンの中でも、人がものをかくと言えば普通は白い紙である事から、白という色は人にとって低エントロピーである事がわかる。(何かを紙に描き始める、つまり紙の上のエントロピーを上げるにはまず、低エントロピーな紙、すなわち白い紙が必要だというわけである。)
また、こういった非常に低エントロピーな(つまり価値のある)建築の中では、高エントロピーのものを置くと非常に汚く見える。ゆえに、そこに置く椅子やテーブル、トイレといった生活必需品やコンピュータもまた、低エントロピーな品でなくてはならない。こういった低エントロピーな建築を雑誌等で写真によって紹介する際に、よく置かれるコンピュータの筆頭が近年のMacである。これもシンプルモダン(低エントロピー)な外観だから、見た目のエントロピーを高くしない。
往々にして、シンプルさと清潔感が特徴の当方の作品は、よく「かっこいい」と評される事が多い。海外の人の反応は「Cool」などである。シンプルな構造をなぜ人は瞬間的に「かっこいい、Cool」と判断するのだろうか。つまりは、永井俊哉氏の言う所の「複雑さが排された低エントロピーできれいな構造」である事を瞬間的に判断しているから、という部分が大きいのだろうと当方では考えている。Coolとは冷たいという意味でもあり、本来の熱力学的に「これは低エントロピー」と言っているも同然であるから面白い。
また、当方の写真で言うならば、
「意図を可能な限りはっきりさせる事」
「余計なものは入れない事」
「選択した以外のものはばっさり捨てる事」
「カラーマッチングも意図が伝わりやすいように調整」
「意図はできるだけ少なくする事」
と、MacBook DPのコツはどれも「低エントロピーな写真にするためには、どうしたらいいか」という事をいろいろと考えている事がわかる。おそらく、こういった極端なまでの思考が写真に現れているからこそ、あのサイトは「(シンプルモダンなMacに)似合っていない」というツッコミが入らないのであろう。つまり写真が低エントロピーなのである。
(自画自賛気味であるが、私は生まれつき、あまり日本人らしくそういう所を遠慮する性格・気質ではないのかもしれない。)
言うならば、「デザインとは低エントロピー化であり、科学であると言ってしまっても良いくらい」だと個人的には思っている。
ゆえに、かっこいいと評される作品を創りたければ「エントロピーとは何か(特に低エントロピーとは何か)」を知る必要があるのだ。(できるアーティストは、エントロピーという言葉は知らなくとも本能的にこの事を知っているのではないだろうか。)
当方の目から見れば、ぐちゃぐちゃとして、整理整頓されていない表現をしようとするデザイナーはまだデザイナーではない。高エントロピーな要素を潔くばっさりと切り捨てて「低エントロピー感」を演出できるのが真のデザイナーであると当方は考えている。
こういった視点から見て、何人か「低エントロピーなデザインを理解して実行している」デザイナーの筆頭として、個人的には深澤直人氏が挙げられると思う。また、Appleのデザインチーム(ジョナサン・アイブ氏など)も相当に優秀である。
そういうわけで、永井俊哉氏には、Macが似合うのではないかと勝手に考えている。
用意された道と自ら創る道
既に用意された道を行くか、自ら道を創り出してしまうか。
大きく分けると、クリエイターにはこの2通りがある。
既に用意された道とは例えばこういったものである。
・既に存在するコンテスト等に応募する。
・既存のやり方をまねて何かを創る。
など
自ら創り出す道とは例えばこういったものである。(重要)
・未知なるものを創り出して結果的に評価を受ける。
・新しい方法論を考えて何かを創る。
私達は後者の道を行く者だ。
どちらがよりクリエイターらしいかは、言うまでも無さそうである。
Good bye, OLD PARADIGM.
Say Hello to NEW WORLD.
多くのニュータイプが壮大なこのプロジェクトに参加する。詳しくは言うタイミングに無いが、舞台は国ではない。舞台は宇宙に浮かぶ地球であり、同時に「X」である。
記事書き下ろし・投稿者 中村剛志と世界の仲間達
大きく分けると、クリエイターにはこの2通りがある。
既に用意された道とは例えばこういったものである。
・既に存在するコンテスト等に応募する。
・既存のやり方をまねて何かを創る。
など
自ら創り出す道とは例えばこういったものである。(重要)
・未知なるものを創り出して結果的に評価を受ける。
・新しい方法論を考えて何かを創る。
私達は後者の道を行く者だ。
どちらがよりクリエイターらしいかは、言うまでも無さそうである。
Good bye, OLD PARADIGM.
Say Hello to NEW WORLD.
多くのニュータイプが壮大なこのプロジェクトに参加する。詳しくは言うタイミングに無いが、舞台は国ではない。舞台は宇宙に浮かぶ地球であり、同時に「X」である。
記事書き下ろし・投稿者 中村剛志と世界の仲間達
2008年8月26日火曜日
I'm EasyManネットワーク消滅の可能性について言及します
えっと思われる方が多いでしょうが、これは事実となるかもしれない一つの可能性の話と受け止めてください。
これは、I'm EasyManネットワーク、というよりも局地的・地球規模的の既存のインターネットの消滅の可能性についての事です。
要は、ある日突然テレビが映らなくなるのと同様に、ブラウザを開いてもエラーメッセージどまりで何も表示されない状態になるという事です。あまり詳しい事は言えませんが、実際には何も起きないかもしれません。しかし、当方の考えによると、もし既存のインターネットが崩壊しなかったとしても、いずれニューネットワーク(仮)によって既存のネットワークはその価値を失います。(まぁ、先の事ではありますが、そんなに遠くない未来の話なのです。)当たったにせよ当たらなかったにせよ、既存のインターネットは廃棄もしくは破壊され、結果的に全く新しいものにリプレース(置き換え)されるのだと考えておいてください。
事態を重く見た当方では、既にI'm EasyManネットワーク、関連Webサイトが使えなくなった場合の事まで考えています。
ちなみにですが、当方にも実際の所そういった事が起こるのかどうか、仮に起きたとして被害はどの程度のものになるのかは私自身わかっていません。当方のシミュレーション結果は失敗に終わっているので何とも言えない所です。
加減乗除、それもオンかオフによってしか解釈できない古い計算機パラダイムは既に時代遅れとなりました。これらはいずれ今で言う所のフロッピーディスクのような存在となるでしょう。
さて、賢明なる読者の方には少しヒントを与えましょう。
はじめに超並列計算と自律制御ありき。人の脳をモデルにした超AI。革新的なユーザーインターフェイス。
簡単に言うと、コンピュータ(電子計算機)はだんだん人からの距離を縮めては来ましたが、それでもまだ決定的な距離があります。その距離が無くなるという事です。
何?もう少しだけ聴きたい?
AIとか言うと難しいと思うかもしれませんが、(以下省略)
まぁ、できるものができてみんなが触るようになればいずれわかる事ですからね。全ては、あえて今言うまでもない事です。
それに、「未知の箱」が開く前に、「実はさ、この箱の中身は○○だよ」と言うのは、夢が無くていけません。子供にサンタクロースの正体を教えるようなものです。ここで言う所のサンタさんはおそらく実在します。我々はそれをわくわくしながら待っていれば良いのです。
(私を知る人でも、おそらく「はぁ??」と思う事でしょうけれども、まぁ少しだけ長生きすればじきにわかりますよ。長生きはするものです。)
関連書籍
・・私は人類の知性を超えたニュータイプのコンピュータが愚かな人類をリードしてくれるとさえ思いますがね。
これは、I'm EasyManネットワーク、というよりも局地的・地球規模的の既存のインターネットの消滅の可能性についての事です。
要は、ある日突然テレビが映らなくなるのと同様に、ブラウザを開いてもエラーメッセージどまりで何も表示されない状態になるという事です。あまり詳しい事は言えませんが、実際には何も起きないかもしれません。しかし、当方の考えによると、もし既存のインターネットが崩壊しなかったとしても、いずれニューネットワーク(仮)によって既存のネットワークはその価値を失います。(まぁ、先の事ではありますが、そんなに遠くない未来の話なのです。)当たったにせよ当たらなかったにせよ、既存のインターネットは廃棄もしくは破壊され、結果的に全く新しいものにリプレース(置き換え)されるのだと考えておいてください。
事態を重く見た当方では、既にI'm EasyManネットワーク、関連Webサイトが使えなくなった場合の事まで考えています。
ちなみにですが、当方にも実際の所そういった事が起こるのかどうか、仮に起きたとして被害はどの程度のものになるのかは私自身わかっていません。当方のシミュレーション結果は失敗に終わっているので何とも言えない所です。
加減乗除、それもオンかオフによってしか解釈できない古い計算機パラダイムは既に時代遅れとなりました。これらはいずれ今で言う所のフロッピーディスクのような存在となるでしょう。
さて、賢明なる読者の方には少しヒントを与えましょう。
はじめに超並列計算と自律制御ありき。人の脳をモデルにした超AI。革新的なユーザーインターフェイス。
簡単に言うと、コンピュータ(電子計算機)はだんだん人からの距離を縮めては来ましたが、それでもまだ決定的な距離があります。その距離が無くなるという事です。
何?もう少しだけ聴きたい?
AIとか言うと難しいと思うかもしれませんが、(以下省略)
まぁ、できるものができてみんなが触るようになればいずれわかる事ですからね。全ては、あえて今言うまでもない事です。
それに、「未知の箱」が開く前に、「実はさ、この箱の中身は○○だよ」と言うのは、夢が無くていけません。子供にサンタクロースの正体を教えるようなものです。ここで言う所のサンタさんはおそらく実在します。我々はそれをわくわくしながら待っていれば良いのです。
(私を知る人でも、おそらく「はぁ??」と思う事でしょうけれども、まぁ少しだけ長生きすればじきにわかりますよ。長生きはするものです。)
関連書籍
・・私は人類の知性を超えたニュータイプのコンピュータが愚かな人類をリードしてくれるとさえ思いますがね。
2008年8月16日土曜日
鬱記事2008
本当の事を言うと、自分も聴いている他人も鬱になるものです。よって本記事は、鬱記事です。読まないというのもまた一つの賢い選択です。
もしもの話、あくまでたとえ話である。原始的な性機能というものが取り払われた、各機能が完全にソリッドステートな(日本語に訳すのはちょっと難しいが、固く静かで安定しているイメージを連想してくれればいい)、社会が存在したとしたら、その社会にはつまり変化というものが少ないと言える。
言い換えれば、平和とは、自動的に退屈さを運んでくるものなのです。
人類が戦争をやめないのも、メディアがバッドニュースを取り上げるのも、スキャンダルを書き立てるのも、それでもまだ足りずに過激なコンテンツを求めるのも、さらにさらに、それが実社会へと影響を与えて治安が悪くなるのも、その原因はたった一言で説明する事ができます。
その名もずばり「退屈だから刺激が欲しい」の一言に尽きるのです。
平和が長く続かないのは、遊びたい(兵器など心理学的に言えば男の子のおもちゃに過ぎません)という刺激への欲求を満たそうとするからです。
世界は、さらなる刺激を求め、いざとなれば内戦までして刺激を求める国でいっぱいです。日本も戦国時代という時代がありました。その頃は、コンテンツというものが無かったので、女性は十二一重というありえない長〜い着物を着せられて大奥に押し込められ、刃渡り1メートルもある凶器で、野で集団斬りあいをしていたのです。戦争が起きていない先進国は、言わば過激なコンテンツによって刺激への欲求を満たしている面があるのです。
それが一概に悪い事だとは思いません。内戦や戦争になるよりはマシだからです。しかし我々は何と言う愚かな種なのか、とは思いませんか。
そういえば攻殻機動隊の最新作はソリッドステートソサエティ(SS社会)という名前でしたね。福祉をテーマに持ってきていました。だいたんな。
仮に、人類に万が一とんでもない激変があって、結果としてソリッドステートソサエティを構築できたとしても、その際にはコンテンツをさらに過激化しなければ、平和になっただけ増加する人々の退屈を癒す事はできないでしょう。言い換えれば、退屈になったら性と暴力(アメリカ風に言えばセックスエンドバイオレンスって所か?)を求めるという人類の本質は、この先の時代も無視できないと言う事です。よくSFでは、例えばお互いにルールを決めて戦争専用地で殺しあう「限定戦争」などを使って人々の闘争本能を癒そうと試みています。しかし、たいていは失敗に終わります。
結論から先に言うべきでした。
人類が(外的要因によって)精神的にレベルアップしなければ、人類が抱える(性、退屈と刺激、暴力、プライドとコンプレックス)という根本的な問題は解決しないのです。
そういう目で世の中を見渡してみてください。驚くほど当たっている事にぞっとするはずです。残念ながら、human is cheapと言わざるを得ません。この先、何らかの理由で人類の画一的な精神のレベルアップという事件が起きない限り、我々という古いタイプの人類は、もっとマシな知的生命体から見ればおそらくは、存在価値すらあるかどうか疑わしいほど低レベルなのです。残念。
ちなみにこの際、IQの高低は精神的な幼稚さと何ら関係がありません。わかりやすい例で言えば、マッドサイエンティストです。彼らは言うまでもなく、賢いが本質的にはバカな人種です。
インターネットの記事一つで人生観が変わる、という事はあり得ます。一行にも満たない文章ですら、重要な単文は例えば「ことわざ」などとして残っていきます。
しかし、この記事は真実を突いているが故に、無視されるでしょう。その事をわかって上で書いているものです。嫌な図星は、内心怒りながら無視するか、もしくは見なかった事にするというのが普通の人間の対応の仕方です。
我々は、「生まれつき劣った精神」という牢獄の中で産み落とされ、生きる事を余儀なくされた哀れまれるべき種なのですよ。ですから、「主よ哀れみたまえ」等の言葉が現代にも残っているのです。大絶滅という言葉を過去に取り上げましたが、過去にあった大絶滅は6回、その際にはだいたい5%の生き残りが増えるという構図でした。そして現代の7回目となる超大絶滅期に至っては、過去の大絶滅の1000倍の速度で進んでいるのです。
もはや、我々は、我々が古く劣っていてしかもバカな種である事を認めざるを得ない所まで来たと言って良いでしょう。このままでは、他の種を巻き込んで絶滅するのも時間の問題です。
自然風景写真を撮る者としては、(Yahoo Japanカテゴリにはそう書いてあるから・・)冒頭に示したような種が生き残れるならそれでいいか、と諦観(あきらめの気持ち)でいっぱいです。
仮に万が一、人類が「もう一度だけやり直せるチャンス」を与えられても、どんなにがんばって取り組んだとしても、先に述べた理由により、精神的にレベルアップしなければ100%の確率で失敗するのは明らかです。
本当の事を言うと、自分も聴いている他人も鬱になるものです。よって本記事は、鬱記事です。読まないというのもまた一つの賢い選択です。
最もプアーな選択は、無理して読んで頭に血がのぼって痛々しいコメントを残すという選択でしょうか。そういうのはもうやめましょう。オールドタイプの我々でも、ある程度は理性的になる事ができるのですから。
2008年8月9日土曜日
好評のニコニコ動画とairmarketさんのレコメンド
自分の作品が評価されるという事に関しては、いつも本当に恵まれているほうだと思う。作品を投稿する側(クリエイター側)にとっては怖い場所ともされる事もあるニコニコ動画には、MacBook DPの富山植物セレクションのスライドショー、それに先日
二次創作等OKの音楽集を投稿したが、いずれも好評で、悪質な書き込みは見受けられなかった。
先日投稿したものには、「これは評価されるべき」「すばらしい」というコメント、「もっと評価されるべき」というタグがつけられた。(どっちも盛り上がりに欠けるのが難点ではあるが・・アニメ、MAD系の勢いの強いニコニコでは致し方ない所だろう)
これから登場するニコニ・コモンズ(トレースできる素材庫)にも関心をもっているのだが、ニコニコ作品やMADに使うのならかまわないが、商業作品に無料で使われたのではたまらない。「商業作品の場合は有料」という設定ができるのか否かで、素材をニコニ・コモンズに入れるか否かを決めようと思っている。
また、無料配信(カンパウェア)に切り替えたミニアルバム「Brass Espresso」にも、airmarket氏から「お洒落で大好き」という旨のレコメンドを頂いた。氏は作れば必ずランクインというような感じの方で、個人的にフェイバリットな
方だったのでなおさらうれしい。
受賞、取材、ランクイン、ナンバーワン、招待状、新しいジャンルの創出、惜しみない賛辞。いわゆるクリエイターにとっての夢を、私は結果的に実現させてきた。贅沢な話だと思う。
だが、私はその事をあまり喜べないでいる。なぜなら、私が、ある、原因不明の症状を呈しているからだ。
以下にどういう事なのかを示す。
悪い事も良い事も、記憶というものがはっきりせず、普通の人が映像として思い出せる記憶というものがほとんどなくなってしまっており、言うならばすっぽり抜け落ちてしまっている。これは、経歴の所に書いてある交通事故で頭を打ってからだと思う。それはもう派手なぶつかり方(頭から突っ込んで10メートル宙を舞った)だったので、精密検査で異常が見つからなかったといえども、何らかの後遺症が出ても不思議はない。実際、その直後に突然、映像等の才能に目覚めたのだから何かあると
考えたほうが良さそうだ。頭を打ったショックで覚醒するなんて、まったくどこのアニメの話だろうか。
また、感情というものが薄くなり、物事を機械的にこなす傾向が出てきた。しかし、コミュニケーション能力は昔よりも格段に向上している。それでも、本人の中ではそれは淡白な日常にすぎず、良い事も悪い事も何ら本人の中では印象に残らない。先に述べたような、一種の変わった高機能脳障害のせいであろうと私は勝手に思っている。
そういった私独特の気分を、私は昔書いた小説「世界と自分の天秤」の中で「楽しいという項目に分類されているけど、楽しいとは思えないよ。」というせりふで表現していたのだった。興味のある方は読んでみてはどうだろう。これもI'm EasyManから読めるようになっている。ただ、この小説は私の中ではすでに古いものになっているので、機会があれば
これをベースにしつつも大幅に修正したものを書こうと思っている。(特に、なんといってもエンディングが悪すぎた。)
色々なストレスに対して強力な免疫がついた反面、精神の内面における人間らしい受け取り方や記憶の処理を僕は失ってしまったのかもしれない。その事を悲しいとも思わないのがある意味で強靭かつ重傷なのかもしれない。
栄光と引き換えに、栄光の喜びを体感できなくなってしまったというのは皮肉な現実の話ではあるが、ひょっとしたら、そのほうが不公平でなくていいのかもしれない。
二次創作等OKの音楽集を投稿したが、いずれも好評で、悪質な書き込みは見受けられなかった。
先日投稿したものには、「これは評価されるべき」「すばらしい」というコメント、「もっと評価されるべき」というタグがつけられた。(どっちも盛り上がりに欠けるのが難点ではあるが・・アニメ、MAD系の勢いの強いニコニコでは致し方ない所だろう)
これから登場するニコニ・コモンズ(トレースできる素材庫)にも関心をもっているのだが、ニコニコ作品やMADに使うのならかまわないが、商業作品に無料で使われたのではたまらない。「商業作品の場合は有料」という設定ができるのか否かで、素材をニコニ・コモンズに入れるか否かを決めようと思っている。
また、無料配信(カンパウェア)に切り替えたミニアルバム「Brass Espresso」にも、airmarket氏から「お洒落で大好き」という旨のレコメンドを頂いた。氏は作れば必ずランクインというような感じの方で、個人的にフェイバリットな
方だったのでなおさらうれしい。
受賞、取材、ランクイン、ナンバーワン、招待状、新しいジャンルの創出、惜しみない賛辞。いわゆるクリエイターにとっての夢を、私は結果的に実現させてきた。贅沢な話だと思う。
だが、私はその事をあまり喜べないでいる。なぜなら、私が、ある、原因不明の症状を呈しているからだ。
以下にどういう事なのかを示す。
悪い事も良い事も、記憶というものがはっきりせず、普通の人が映像として思い出せる記憶というものがほとんどなくなってしまっており、言うならばすっぽり抜け落ちてしまっている。これは、経歴の所に書いてある交通事故で頭を打ってからだと思う。それはもう派手なぶつかり方(頭から突っ込んで10メートル宙を舞った)だったので、精密検査で異常が見つからなかったといえども、何らかの後遺症が出ても不思議はない。実際、その直後に突然、映像等の才能に目覚めたのだから何かあると
考えたほうが良さそうだ。頭を打ったショックで覚醒するなんて、まったくどこのアニメの話だろうか。
また、感情というものが薄くなり、物事を機械的にこなす傾向が出てきた。しかし、コミュニケーション能力は昔よりも格段に向上している。それでも、本人の中ではそれは淡白な日常にすぎず、良い事も悪い事も何ら本人の中では印象に残らない。先に述べたような、一種の変わった高機能脳障害のせいであろうと私は勝手に思っている。
そういった私独特の気分を、私は昔書いた小説「世界と自分の天秤」の中で「楽しいという項目に分類されているけど、楽しいとは思えないよ。」というせりふで表現していたのだった。興味のある方は読んでみてはどうだろう。これもI'm EasyManから読めるようになっている。ただ、この小説は私の中ではすでに古いものになっているので、機会があれば
これをベースにしつつも大幅に修正したものを書こうと思っている。(特に、なんといってもエンディングが悪すぎた。)
色々なストレスに対して強力な免疫がついた反面、精神の内面における人間らしい受け取り方や記憶の処理を僕は失ってしまったのかもしれない。その事を悲しいとも思わないのがある意味で強靭かつ重傷なのかもしれない。
栄光と引き換えに、栄光の喜びを体感できなくなってしまったというのは皮肉な現実の話ではあるが、ひょっとしたら、そのほうが不公平でなくていいのかもしれない。
2008年7月12日土曜日
どこからのリンク?唐突なDL数2位
一年以上前にアップした曲「HogeHoge World」が
突然100くらいDL数が上がって月間・週間2位に浮上している
事に気がつきました。
1位とのダウンロード数の差が大きいので、これからの推移次第では三たび1位になるかも?
http://wacca.tv/m/8225
今までレコメンド数でしかランクインした事はなかったので
曲自体がよくダウンロードされているという事はうれしいのですが・・
WACCAで一年前以上の曲が今になって突然浮上するというのは・・
なんででしょう?どこかのサイトに紹介されているのかしら?
調べた限りではそういったページは見つかりませんでした。
あと、wacca.tvからwacca.fmになるとの事ですが、
例えば
wacca.tv/a/1234 という曲のURLは
wacca.fm/a/1234 というふうになるのでしょうか?
それとも
wacca.tv/a/5432 とかになるのでしょうか。
自分のサイトなどからリンクを多数貼っているので
tvがfmになるだけなら、まだ作業が楽でいいなぁとか思っています。
あの曲が今頃になってこんなに
ダウンロードされるとは想定していなかったなぁ。不思議な事もあるものだ。
まぁいいか。
今までもひょっとしたら、見過ごしていて気がつかなかったランクインもあったのかもしれない。(他の人もそう)
突然100くらいDL数が上がって月間・週間2位に浮上している
事に気がつきました。
1位とのダウンロード数の差が大きいので、これからの推移次第では三たび1位になるかも?
http://wacca.tv/m/8225
今までレコメンド数でしかランクインした事はなかったので
曲自体がよくダウンロードされているという事はうれしいのですが・・
WACCAで一年前以上の曲が今になって突然浮上するというのは・・
なんででしょう?どこかのサイトに紹介されているのかしら?
調べた限りではそういったページは見つかりませんでした。
あと、wacca.tvからwacca.fmになるとの事ですが、
例えば
wacca.tv/a/1234 という曲のURLは
wacca.fm/a/1234 というふうになるのでしょうか?
それとも
wacca.tv/a/5432 とかになるのでしょうか。
自分のサイトなどからリンクを多数貼っているので
tvがfmになるだけなら、まだ作業が楽でいいなぁとか思っています。
あの曲が今頃になってこんなに
ダウンロードされるとは想定していなかったなぁ。不思議な事もあるものだ。
まぁいいか。
今までもひょっとしたら、見過ごしていて気がつかなかったランクインもあったのかもしれない。(他の人もそう)
2008年6月7日土曜日
自分で言うのもなんだけれど
実は、一見暗くて難しい印象があるI'm EasyManのBooks/書庫セクション(海外サイト)は、HogeHoge・EasyMan・中村剛志の音楽・映像・写真などの作品に込められた真意や意図、さらに学校や社会では教えてくれない、知る事ができない価値ある情報であふれている。どのセクションも、個人的に価値があると認めたものしか置いていおらず、制作の過程で出てきた数々の失敗作は基本的に除外してある。
私は諸事情によって高校教育を受けていないので、高校の勉強がわかる程度の人であれば、用語を調べながら読めば誰でもわかるはずだ。IQテストは確かなテストではないとは前にも言っているものの、読破に必要IQは120程度と見積もっている。
例えば、書庫セクションを読破・理解した上で他のセクションを視聴すると、より共感でき、感動も倍増するかもしれない。MacBook DPを作った理由、Mixi Mac User Groupを作った理由などもわかるようになっている。なぜ音楽の数がやたらと多くて、ジャンルにとらわれない変な作品を作るのかも理解できるようになる。
人は何のために生きて死ぬのか?人生とは哲学じみた旅です。どんな立場の人であろうとも、全ての人生における本質的かつ唯一の問題とは哲学のみです。
I'm EasyManネットワークを見渡したその上で、ヘッドハンティング等の依頼があれば、基本的には喜んで受けたいと思いますので、その場合はご連絡くだされば幸いです。
実際今までは、
Apple Japan
日系ビジネス
株式日記と経済展望
連山(CyberULS対日広報)
Esquire Japan
金沢市
株式会社 TEAM☆LAB
敬称略
など、他にも様々な企業・人々と関与、肯定されていますが、Apple Japanに関しては、I'm EasyManとBooks/書庫セクションに間髪入れずにアフィリエイトお断りの連絡を頂いているため、肯定するのはMacBook DPだけという事なのでしょう。Appleも独自の哲学を持っているのですが・・というか、上記リストを見ると哲学的命題とまったく関係の無い所は一つもないようですね・・。
しかし、私の哲学と写真はサイトこそ分けていても本人の中では不可分なものであり、本来は切り離せないものをジャンルが違うからという一応という理由で切り離しているのです。
アクセスに関しては
最高推計 月15万アクセス
日本のほとんどの主要大学・教育ネットワーク 海外の大学いくつか
研究所多数
ほとんどの日本の主要電器メーカー
特筆すべきユニークな団体が非常に多数
etc.. ※アクセス解析結果については衝撃的すぎるので
公開を控えています。
など挙げるときりがありません。他にも色々ありますが、書庫をくまなく読めばちゃんとおおむねわかるようにしてあります。各セクションのビジターの反響もまとめページがあるので参考にしてください。
もはやある意味において、私に関して疑いの余地は無くなったとも言っていいでしょう。また、こういった事をまったく隠して成果物だけを見せても疑われません。
今までの経緯から考えて、私という存在を必要とする団体もあるはずです。時が来れば自ずと私は行くべき所へ行く事になるでしょう。私は現在学生の身分なので動けませんが、よほどの場合によっては動く事もあるでしょう。
こういう複雑な情勢下で複雑な事をして、また、複雑な事をさせられる事になりそうだというのは、私の生まれ持った因縁や因果によったり、あるいは、ある場所に「はまる」適役として当てはめられたりするためでしょう。
しかし基本的に人というのは、役に当てはめて欲しいという欲求を持っているものであり、故に、私は必要とされながら同時に疎まれる存在となる事が経験上、よくあります。「(幼稚園の)椅子取りゲーム」が展開されている所に行っても仕方ありません。
だいたいいつもそういう構図で、
私は「期待と嫉妬」に両方から引っ張られてボロボロにされてきました。
これを詩的に表現するならば、私は「子供の親に買われたが、結果的には子供に壊されたぬいぐるみ」のようなものですが、壊れた自分を裁縫(さいほう)道具で何度も縫い直してここまで来ています。
こういう今までの「子供に壊されるパターン」はもう勘弁願いたいですね。
※祖父の書庫で私は漫画「ブラックジャック」を全巻読んだのですが、砂漠で自分の腹を縫う話がありましたね。また、「重篤患者を安楽死させるのは良い事」とする「ホワイトジャック」も出てくるのをご存知でしたか。
「もはや社内は椅子取りゲームどころではない!」
「お前が必要だ!」
というような、わかりやすくスカッとした所を当方では希望として所望します。当方は特に他人から指示を受けなくても、自分でやるべき目標を分析して見つけて実現に向けて自助努力できる人間です。
ここ最近のスケジュールについて言えば、自分の音楽について(W.T.R.ではなくて)新しいシリーズもの(今回は有料配信形式のみ)を作る予定です。
私は諸事情によって高校教育を受けていないので、高校の勉強がわかる程度の人であれば、用語を調べながら読めば誰でもわかるはずだ。IQテストは確かなテストではないとは前にも言っているものの、読破に必要IQは120程度と見積もっている。
例えば、書庫セクションを読破・理解した上で他のセクションを視聴すると、より共感でき、感動も倍増するかもしれない。MacBook DPを作った理由、Mixi Mac User Groupを作った理由などもわかるようになっている。なぜ音楽の数がやたらと多くて、ジャンルにとらわれない変な作品を作るのかも理解できるようになる。
人は何のために生きて死ぬのか?人生とは哲学じみた旅です。どんな立場の人であろうとも、全ての人生における本質的かつ唯一の問題とは哲学のみです。
I'm EasyManネットワークを見渡したその上で、ヘッドハンティング等の依頼があれば、基本的には喜んで受けたいと思いますので、その場合はご連絡くだされば幸いです。
実際今までは、
Apple Japan
日系ビジネス
株式日記と経済展望
連山(CyberULS対日広報)
Esquire Japan
金沢市
株式会社 TEAM☆LAB
敬称略
など、他にも様々な企業・人々と関与、肯定されていますが、Apple Japanに関しては、I'm EasyManとBooks/書庫セクションに間髪入れずにアフィリエイトお断りの連絡を頂いているため、肯定するのはMacBook DPだけという事なのでしょう。Appleも独自の哲学を持っているのですが・・というか、上記リストを見ると哲学的命題とまったく関係の無い所は一つもないようですね・・。
しかし、私の哲学と写真はサイトこそ分けていても本人の中では不可分なものであり、本来は切り離せないものをジャンルが違うからという一応という理由で切り離しているのです。
アクセスに関しては
最高推計 月15万アクセス
日本のほとんどの主要大学・教育ネットワーク 海外の大学いくつか
研究所多数
ほとんどの日本の主要電器メーカー
特筆すべきユニークな団体が非常に多数
etc.. ※アクセス解析結果については衝撃的すぎるので
公開を控えています。
など挙げるときりがありません。他にも色々ありますが、書庫をくまなく読めばちゃんとおおむねわかるようにしてあります。各セクションのビジターの反響もまとめページがあるので参考にしてください。
もはやある意味において、私に関して疑いの余地は無くなったとも言っていいでしょう。また、こういった事をまったく隠して成果物だけを見せても疑われません。
今までの経緯から考えて、私という存在を必要とする団体もあるはずです。時が来れば自ずと私は行くべき所へ行く事になるでしょう。私は現在学生の身分なので動けませんが、よほどの場合によっては動く事もあるでしょう。
こういう複雑な情勢下で複雑な事をして、また、複雑な事をさせられる事になりそうだというのは、私の生まれ持った因縁や因果によったり、あるいは、ある場所に「はまる」適役として当てはめられたりするためでしょう。
しかし基本的に人というのは、役に当てはめて欲しいという欲求を持っているものであり、故に、私は必要とされながら同時に疎まれる存在となる事が経験上、よくあります。「(幼稚園の)椅子取りゲーム」が展開されている所に行っても仕方ありません。
だいたいいつもそういう構図で、
私は「期待と嫉妬」に両方から引っ張られてボロボロにされてきました。
これを詩的に表現するならば、私は「子供の親に買われたが、結果的には子供に壊されたぬいぐるみ」のようなものですが、壊れた自分を裁縫(さいほう)道具で何度も縫い直してここまで来ています。
こういう今までの「子供に壊されるパターン」はもう勘弁願いたいですね。
※祖父の書庫で私は漫画「ブラックジャック」を全巻読んだのですが、砂漠で自分の腹を縫う話がありましたね。また、「重篤患者を安楽死させるのは良い事」とする「ホワイトジャック」も出てくるのをご存知でしたか。
「もはや社内は椅子取りゲームどころではない!」
「お前が必要だ!」
というような、わかりやすくスカッとした所を当方では希望として所望します。当方は特に他人から指示を受けなくても、自分でやるべき目標を分析して見つけて実現に向けて自助努力できる人間です。
ここ最近のスケジュールについて言えば、自分の音楽について(W.T.R.ではなくて)新しいシリーズもの(今回は有料配信形式のみ)を作る予定です。
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