2008年3月25日火曜日

対象は己を知る道遠く他人を知る道さらに遠く戦いの結果は神のみぞ知る

ことわざ「己を知り相手を知れば百戦危うからず」を自分流に書き直したタイトルである。
つまり、戦うにはまず自分を知る所から始めなければならない。

さて、IQテストというのはよくある非常にいい加減なものから精密なものまであるけれども、ある時は「少なくても130以上」だったり「110程度」だったりする。精密なIQテストは、各能力グラフが出る。ちなみにそれは、いわゆるMENSAではない。

数値が高めなのはわかっている。問題はむしろ、能力のバランスだ。数年前のものだし、まだ詳しく見ていないのだが、普通に第3者的に見ても、私がバランスドプレーヤーでない事はわかる。実際グラフも極端なものに見えた。突出しているのが、空間認知に関する能力。これは写真の能力の高さやデザインセンスに反映されているわかりやすい能力だ。一方、おそらく常人以下の分野も存在する。言いたくはないが、私自信非常に気にしていたところだった。いわゆるコンピュータ的に頭が良い人(暗算できるとか、記憶力が高いとか、計算が速いとか)とは私は微妙に違うタイプなのかもしれない。

私がやけにコンピュータを触る理由は、この能力バランスを自分で無意識に補おうとしていたのかもしれない。

さて、テーマを新しくする。高い能力と霊感についてである。定規で測る感じのやり方では、その尺度でしか物事を測れない。しかし実際には、霊的なレイヤーも能力に関わっているのではないか?というのが私の最近の考えだ。私は、空間的な美醜を判断するだけでなく、霊場であるとか、霊圧であるとかを感じる事ができ、さらに普通の人が見えないものが見える。これは、空間認知能力プラス、霊的な空間認知能力も備わっているという事ではないだろうか?実は、論理的に見た能力バランスと霊的な能力バランスは不可分のマージしたものであって、定規(測定方法)によって見え方が異なるだけではないのか?という考え方だ。これは写真などでも同じ事が言える。写真というのは不思議なもので、全く同じ被写体でも、撮る人の考えによって全く性格の異なる写真になる。観察者の方針に、写真はねじ曲げられるというのが私の考え方だが、これと同じ事が能力テストにも当てはまるのではないか?と思ったりする。

「ある考えを突き詰めていくと脱線し、あるべき解答に戻れなくなる」という傾向が私の場合あるそうだが、私はそれは疑わしいと思っている。なぜなら、突き詰めていった結果よい結果が出た事が多かったからだ。そういう風に見えるのは、観測者や定規(測定方法、その方法論)に起因しているのではないだろうか。

己を知る事はとても難しい。なぜ難しいかといえば、例えば自分の姿形を確認しようとする時、人は鏡などを用いなければならない。自分が自分であるがゆえに、自分の事は観察できない。ことわざで言えば灯台もと暗しという事になる。鏡を見るという事は、自分を出力して、フィードバックの結果を見るという事である。いろいろな自分なりのパターンを表現して、それを自分で確認したり、他人のフィードバックを受けてやっと自分の断片が見える。それをつなぎ合わせ統合した結果、ある程度自分の像が見えてくる。それでも、自分の像が完璧に見える事はない。生まれて死ぬまで、どんなにがんばってもある程度の自分のぼやけた輪郭しか見える事はない。いや、そもそも輪郭などあるのだろうか。食べ物を身体に変換して、それを排泄する事によって自分を保っているのだから、環境と自分というシステムとには、実は明確な境界線などない。しかし、それでは考えをまとめる事などできないから、妥当なところにラインを引く。それが境界線であり、ひいては「選択する」という事でもある。

他人を知る事は、自分を知る事の100倍は難しい。他人の思考を盗み見る事は普通できない。得られる情報も限りなく少ない。仮に常にべったりくっついていたとしても、内心何を考えているのかは結局わからず、他人に関する推察はすべて推察の域を出る事はない。本人さえも本人がわからないのに、他人を本当に知るという事は事実上不可能だ。ただ、自分を知るにしても他人を知るにしても、ある程度参考になる方法論はある。それが常識である。しかし、常識は時代の流れによって常に刷新されていくし、今の非常識が、100年後の常識になったという事も少なくない。なんともあいまい(ファジー)でぼんやりとした、はっきりしない世界観だが、これが現状の我々なのである。ブライアン•ウィットウォースの論文に従うならば、シミュレーション上のオブジェクトがどんなにがんばって自分や他人を入出力によって特定しようとしても、完璧な姿をかいま見る事ができないのは当然の成り行きである。自分にせよ他人にせよオブジェクトであるわけだから、それの本当の姿を知るためには、オブジェクト以上のレイヤーの観察者でなくてはならない。つまり、シミュレーションをしている本人である。これを宗教的に言えば、「神のみぞ知る」という事になるのであろう。そして本文は、タイトルへ帰結する。

PostScript(後書き)

Mac OSX,Windows,Linuxなどの、パソコン向けOSの世界観が最近大きく変わろうとしている。そこで、現時点の各OSの特徴を記してみる。

Mac OS X - クリエイティブ系ソフトがそろうWindows以外の唯一の環境。同時に、X11などをオプションインストールすればUNIX用アプリケーションも使える。価格は妥当なラインだが、満足に動作するマシンは、実質ごく近年のMacマシンのみである。Mac本体はAT互換機に比べると安価とは言えない水準。OpenOfficeは次のバージョン(3)でネイティブ対応する予定。マルチメディアはWindows並みだが、ゲームに対してあまり積極的ではない印象。

Windows - OpenOfficeの登場と台頭によってMicrosoft officeの意味が急速になくなってきており、セキュリティ面では最悪のOS。価格は高価。ただ、広く普及しているため使わざるを得ないシーンが多い。ソフトウェアの数は非常に多い。マルチメディアに強い。ゲームに積極的であり、ゲームをするならWindowsしかないだろう。DirectXとそれに対応したグラフィックス等の革新が目覚ましいが、非常にコストがかかる。

Linux - OpenOfficeと組み合わせても無料だが、何でも無料でなくてはならないという指針が掲げられているせいで、商用ソフトが育たない土壌とも言える。クリエイティブでないユーザーならばubuntuで十分だろう。問題は、Microsoftのせいで、メーカがなかなかLinux機を出さない事。自作すれば最も安上がりな選択肢。マルチメディアはubuntuの場合普通に使う分には問題ない。

仮想化 - VMware、パラレルズなど、各OSで任意のOSを起動する事が可能になった。

インターネットにつながるOSなら何でもいい - ローカルのプログラムの機能がインターネット上のサービスに吸い取られており、使用するOSは何でもよくなってきた。中核的な存在がJava、Googleなど。

Sun & Sun Solaris 10 - 勢力としては指折り。軍事レベルのセキュリティ強度を持つフリーOSと言われている。Sun Ray、SPARKプロセッサなど、これから一山当たりそうな技術を抱える。「Linuxはお友達、WindowsとRedHatはたたく」と発言している。


Windowsが当たり前な時代はもう終わっている。職場の人々の認識が変わってくるのも時間の問題だろう。昔はWindowsでなければGUIでみんなが使っているパソコンが使えなかったが、今は他の選択肢から選ぶ事ができる。Eee PCは教育用として、Googleに最適化したLinuxを搭載し爆発的に売れるも、なぜか日本ではWindows入り。

そうこう言っているうちに、携帯電話がPCを追い抜くという観測も広まっている。もう既に、パソコンよりもケータイのほうが多く使用されている。OSはいずれでもない組み込み向け。その多くがJavaに依存している。唯一、AppleのiPhoneはOSXを採用している。

以前にも似た事を書いたが、オープンソースはタダだから、経済システムが回らない。反経済主義と言われても仕方がない。仮に、ソフトウェア開発がカネにならない時代がオープンソースのせいで来てしまったらどうする?みんな「ソフトはタダなものでしょ」と思ってしまったらどうする?結果、ソフト開発者は脱プロせざるを得なくなる。タダより高いものはない、というのは本当かもしれない。タダだから善であるという方程式は本当に正しいのか?