2008年3月6日木曜日

心に辿り着くまでの話

心に辿り着くまでの話
 中村剛志 2008年3月6日

このシリーズを、私の愛する人々および不特定多数の人々に捧げる。
原稿用紙約30枚ぶんと長いですが、最後まで読み切る事を勧めます。

・まずは当たり前の事からお話します

当たり前の事、つまり常識とは、「当たり前だから当たり前なのだ」というようなトートロジーによって意味付けされていますが、トートロジーには説得力がありません。しかし、一般常識を学校や家庭で教われなければ、極論何でもありという事になってしまい危険なので、常識という鎖で人を繋ぎ止めないといけないのです。常識を教わるよりも前に、戦争やテロリズムについての知識を植え付けられれば、それがその人の常識となってしまいます。もちろん、国や地域によって常識の形式は異なります。あまりにも常識、すなわち最初に教わった論理体系が違いすぎると、人はわかりあう事が難しくなります。にも関わらず、航空機は行き交い、今はグローバル社会と言われています。はたして、異なる常識を持つ人々が交流する事に危険は無いのでしょうか。もちろんあります。常識とは普通、お国柄や土地柄を反映したものです。今のところ、地球上にはどこの国に行っても通用する普遍的な常識というものは存在していません。今の所、一応英語が世界共通語というような雰囲気になってはいます。最近は中国語を覚えたほうが良いという場合もありますが、異なる言語を通訳して会話するだけなら、パソコンや携帯端末でもかなりできる時代になってきました。表層的な、つまり浅いレイヤーで話し合っているだけなら特に問題はありません。しかし、国固有の考え方というレベルになると、なかなかお互いに譲ろうとしません。国連という組織はまともに機能した事が無いという意見もありますが、それがさらに深いレイヤー、自国の利益や自分の損得となると、まず絶対に譲らない傾向があります。もし、生まれてこのかた世界の国々を移住しつつ、その土地の常識を学んで歩いて何十年、という人が存在すれば、たくさんの常識を使い分けてどんな国の人とでもある程度円滑にコミュニケーションできるかもしれません。この人を仮に「世界常識通訳家」と呼びましょう。しかし、世界常識通訳家は単に多数の常識を使い分けているだけであって、普遍的な常識を会得しているとは言えません。単なる物覚えが良くて器用な通訳家なだけです。何が言いたいかというと、世界を一つにまとめる事は、もう決してできないという事です。

・分断されて進化した惑星

分断されて進化した惑星とは、地球の事です。他の惑星の場合はどうなのかは不明ですが、大陸がちりじりに分裂した上に、暖かい地方と寒い地方まであり、長い間大陸間を楽に移動する手段が無かった事から、人々は異なる環境で異なる進化を遂げる事になりました。ちなみに、地球にはどのくらいの種がいるかという事を調べましたが、人類以外では、統計自体存在しないようで、仮にあっても推論の域を出ないようです。分断されている事自体は別に悪い事ではありませんし、国交、貿易をしなくとも、その国だけで生きていけば良いわけです。貿易が開始される以前は、スタンドアローンで国が運営されていたのです。このスタンドアローン複合体という国の構造は、自立しており、相互に依存していません。ゆえにある意味では、かなり安定した構造と言えます。つまり、隣の国の事は知らない、自分の地域以外の事もよくわからないが、自分たちで食料をまかない、自立した自分達の社会の間から出ない状態です。お察しの通り、日本でも昔はこのような状態でした。今でも、日本全土の事を、全ての国ではないのに「全国」と呼称する理由は、日本が島国であったために、長い間他の国が海外にあるという感覚が薄く、日本が各地域ごとに「くに」と呼び合っていたためであろうと推測できます。
例(昔の富山弁の場合)
「あんたがたぁ、どこのくにから参らはったがけ」
しかし、先ほど私は「安定した構造」と言いましたが、それは実は間違いです。もし、昔の人が他国を侵略して自分達の領土を拡大しようと考えても「やはりそんな野蛮な事はあり得ない」と考えるほど精神的にレベルが高かったら、紛争や戦争は無かったでしょう。しかし残念な事に、類人猿から進化したばかりであった人類は、欲望のままに自国の領土を拡大する事に熱心でした。ヨーロッパではご存知の通り、日本でも、戦国時代という「くに」の領土を拡大するための内戦が絶えませんでした。実は戦国時代というのは今風に言えば内戦、内紛なのですが、そう呼ぶ事に抵抗があるためか、日本では戦国時代の事を指して内戦、内紛とは呼称しません。結局、、国をスタンドアローン複合体として満足する事は、歴史上長い間実現しませんでした。さらに私は、ここに性と性教育の問題が加わっていたと考えます。昔の人は子供を作る事自体を良しとする傾向があり、日本では「産めよ増やせよ」という煽り文句がありました。セックスが盛んであったため、結果として、子供がどんどん生まれる事になります。その生まれた子供を労働力として親が使うのが、かつての当たり前でした。そして支配者たちは領土拡大のために、軍を組織しました。戦地では兵が死に、基本的人権という概念もまだまだ登場を後にするので、いつまでも争いを続ける事ができました。しかし、長い戦乱の時代を経て、ようやくこのやり方が自分達にとっても良くない事がわかった人類は、一応は領土拡大のための戦争をやめます。しかし第一次世界大戦は始まってしまいます。百科事典ウィキペディアの記述によれば、原因は複合要因とされています。
*普仏戦争以来数十年間大規模な戦争はおき ていなかったことによる戦争記憶の風化
*ナショナリズム
*未解決の領土問題
*複雑な同盟関係(三国同盟、三国協商、日 英同盟など)
*複雑かつ分裂した支配(和訳)
*外交における通信の遅延、意図の誤解
*軍拡競争
*軍事計画の硬直性
百科事典WiKiPediaより
ここからは、根源的な問題はナショナリズムや領土問題や軍拡競争があり、まだお互いの国の事をよくわからない段階でお互いの国同士の不安感が爆発したというのもあるかもしれません。国交正常化を待たずに世界は大戦の火ぶたを切って落としてしまいます。私は日本人ですが、刀を持ったサムライが東の果ての国には居る、と聞かされて育ったら日本人とは怖いのだなぁと勘違いしてしまうでしょう。もしも、地球が形成された時、地球の大陸活動がおだやかで分裂もせず、気候の変化も激しくなかったら、こんな事にはなっていたでしょうか。おそらくなっていました。人類の歴史に常に争いが絶えなかったのは、環境要因よりも、人間というシステム自体の問題と思われます。その後の第2次世界大戦までにも大きな戦争がいくつかあり、第2次世界大戦開戦の要因にはアメリカ発の世界恐慌、つまり金融大事件が加わっています。ここに銀行というキーワードが出てきます。私が言おうとしている事は、環境の要因がどうであれ、人間は戦争を始める種だったという事です。賢い人はたいてい自分の馬鹿さを知っています。すなわち自分の限界も知っています。永井俊也氏の言葉をお借りすると、人が自分の限界を認識すると、すでにその人は限界を超越しています。しかし、普通の人は自分の限界を知りません。クラシックな飛行機や刀で切り合っていた時代は、今から思えば馬鹿みたいな時代だったのだなぁと振り返る事ができますが、その頃支配者になった人々は、それらしい大義名分を与えて、豪華な建築で権力を誇示し、間違った常識をインストールして人々を本気で戦争に駆り立てました。これは推測になりますが、常識として侵略戦争は正しいとインストールされた人々で、教育や科学技術もさほど進歩していないとなると、個々人が自分の限界を認識できていたとは思えません。おそらく、自分達は馬鹿だなどとは思っていなかったであろうし、何でもできると考えていたのかもしれません。その事を思わせる、第2次世界大戦時の日本の歌があります。
題名は「進め一億火の球だ」。
作詞:大政翼賛会
作曲:長妻完至

行くぞ行かうぞ ぐゎんとやるぞ
大和魂だてぢゃない
見たか知ったか底力
こらへこらへた一億の
かんにん袋の緒が切れた

靖国神社の御前に
拍手打って ぬかづけば
親子兄弟夫らが
今だ たのむと声がする
おいらの胸にゃ ぐっときた

さうだ一億火の玉だ
一人一人が決死隊
がっちり組んだこの腕で
守る銃後は鉄壁だ
何がなんでもやり抜くぞ

進め一億火の玉だ
行くぞ一億どんと行くぞ
※さらに、「進めぇー!一億!火の玉だぁ!行くぞぉ!一億!どぉんとぉ行くぞお!」という過激な絶叫が入るようです。
やはり今を生きる我々にとっては直視しがたい、現代風に言えば「痛い」ものである事がわかります。これに本気で乗っかろうとする人は今では少ないものと信じますが、たった60年前ほどでこんな状態だったのです。日本はドイツほかと組んで、アメリカ・ソビエト以下の連合軍に戦争に負けたので、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)によって日本の常識は塗り替えれられました。今では、アメリカと日本の元兵士の老人たちが、戦後60年を振り返る野球をするなどしていますが、それはつい最近の話で、ついこの間まで日本はずっとアメリカに強く警戒されていました。実は現在も警戒されているようです。日本の作る戦闘機の性能は良く、その後、日本の自動車メーカーや電器メーカー、製造業へとつながっていきます。世界最初のコンピュータ、ENIACというものもまた、アメリカの陸軍の大砲の弾道計算のために作られました。日本の技術力はコンピュータ分野でも強く、NECの地球シミュレータは世界一高速なスーパーコンピュータ(略してスパコン)となった事も最近の事です。スパコン部分野では、事実上、日本とアメリアの勝負となっています。日本発の無償OS「TRON」は世界的に広まる可能性がありましたが、アメリカのスーパー301条等によって国外進出を遮られてしまいました。(TRONは家電分野で生き残りました。)各国間のくすぶりと不信はいまだ消えず、第3次世界大戦の可能性も耳にします。ここまで読めば、あなたもグローバル化というのが実は危険な道であったという事がおわかりでしょう。国際銀行家や支配者たちによって、世界は貿易でものをたくさんやり取りするようになり、報酬は、紙幣、つまり印刷すればできる紙切れとなりました。偽札は厳しく取り締まられますが、本物の紙幣もまた、作り物であるので、本質的に全ての紙幣は偽札とも言えます。使えば使うほど借金をする事になります。借金は雪だるま式に大きくなり、その借金を払うためにさらにお金を使って借金を増やします。。これが、なぜ国の借金があれだけ大きくなるのか、という疑問の答えとなります。世界で一番ズルをしているのは実は銀行家です。その辺りの説明はグーグルビデオにお任せしましょう。国連がまともに機能した事がないという理由も、何となくわかってきたのではないかと思います。昔ながらの人間の対外国恐怖に上乗せする格好で、金融と先端軍事と新型の核と借金システムが加わって、我々は昔より明らかに危険な状態に置かれています。戦争は人類に宿命づけられたものと理解する人も居ます。だとしたら、我々の生きる現行の社会システムやインフラもまた、破壊や機能停止を前提に仕組まれている可能性もあります。日本が非核3原則をうたっているのは、うたいたいからではありません。おそらく強制されたのです。火の玉だ、ではありませんが、もとのままの日本だったら「これぞ火の玉」と核装備に夢中になっていた可能性も考えられます。実際、ほとんどのインフラはコンピュータで制御されており、EMP兵器を使えばインフラを日本全体で一度に停止させる事も可能です。電子機器が一斉に動かないとなると、インフラは停止します。インフラが停止すると、電気、水道、ガス、灯油、ガソリン、運輸網、通信網、輸出入が停止します。今の日本は、インフラが停止した場合を想定していないように見えます。もうお手上げとしか言い様がありません。
 さて、「今から戦争と紛争と人類の歴史の話をします」ともし最初に言っていたら、読んでもらえなかったと思うので、こういう形で書かせて頂きました。現実はいつも悪夢のようなものです。「知らぬが仏」ということわざ通り、知らないほうが良い事のほうが多いのです。しかし、いざ開戦、有事となると、(偽りの)平和という常識がインストールされた日本人は腰が抜けて動けないでしょう。体力のあるなしもそうですが、それ以上に心の備えができているか、という事が重要なのです。

・「人類と人類の精神」

人類は精神的な側面を見ようともせず、資本主義によって物質面だけを追い求めてきました。その結果、原因不明の精神病が流行り、日本は世界2位の自殺大国となってしまいました。精神的な側面というと、宗教を思い浮かべるかもしれませんが、原始宗教は戦争によく利用されてきました。新興宗教については言わずもがなという状態です。精神の活動が最初になければ肉体の行動はないわけですから、本来、精神をいかにうまく制御するかという点が追求されるべきでした。しかし、結局自分達を律するという事は無理だったようで、アメリカでは一方的なマインドコントロールの研究が熱心にされています。高度な科学哲学的映像作品を創る事で知られるアニメ映画監督の押井守氏とは、イート金沢というイベントの授賞式でお会いした事がありますが、氏は講演で「人間は欠陥品だから」と言っておりました。私も少なからず同感です。人類が生まれるはるか昔は、植物が増えすぎて酸素でいっっぱいになり氷河期になるなど事も起き、「大絶滅」が5回も起きています。無料地球表面観察ソフト、グーグルアースで見てみればわかる通り、今の地球は人間でいっぱいです。そして、今が6回目の超大絶滅の最中と言われています。普通、大絶滅は数十万年かけて起こりますが、今回の速度はなんと過去の例の100倍から1000倍の速度で進行しているが故に、一部では「超」大絶滅と呼ばれているのです。過去に起こった大絶滅は自然現象が原因でしたが、今回は人間の増加が原因なのです。今回の大絶滅には、工業化が深く関わっています。工業化のレベルと、自然環境の破壊レベルはほぼ重なる事が知られています。人間の何が悪いのか?生きている事は素晴らしい?どうやらその人間主義はいよいようさんくさくなってきたと言わざるを得ない現状です。そもそも、人間は殺してはならないし人権もありますが、動植物についてのガイドラインがありません。俗にミートリックス等と呼ばれているようですが、実にひどい環境の中で家畜は「生産」され、屠殺され、解体され、ポリ容器に詰め込まれてスーパーにその身をさらします。買い物客はそれをレジに「100円 150円」などと通して焼いたりして食べます。自然界で肉食動物がしている、「狩りをして食べる」という、食べられる者に対する超最低限の礼儀すら守れていません。ライオンは、満腹の時は獲物が横切っても余計に殺したりしない事で知られます。しかし、人類はいくらでも殺して冷蔵庫に放り込みます。家畜は機械部品同様、生産される対象でしかないのです。当たり前の事ですが、改めて書いてみるとやはり人間とはおぞましいです。この「自分達はどうしようもない欠陥種である」という認識無くして前には進めないはずです。モラルハザード、みんなで渡れば怖くないという状態です。動物園で動物愛護とはこれもまたひどい話です。自分達が環境を破壊して、すみかを奪っておきながら、「飼ってあげている」とは笑わせてくれます。さらにイルカなどに一方的に芸を仕込み、フレンドシップを語るとは、もはやぐうの音も出ない残酷さです。

・流行の作品から分析する日本人の心理
現代日本は既に述べた通り異常な国の一つですが、流行の作品の特徴からは、どこがどう異常なのかを知る事ができます。社会現象ともなった「新世紀エヴァンゲリオン」では、後半話で形而上学の研究室の描写があります。
主人公の母がそこに居ます。形而上学とは、物理学の法則はなぜ存在するのか等の哲学的問いかけの分野です。エンディングで、人類は心の境界線を無くして一つになってしまいます。哲学的に、考え込んでいくと「何もかも消えてしまえばいいじゃないか」であるとか「意味に意味はあるという事はトートロジーだから、本質的には無意味しかない」などの絶望的結論に辿り着く事が多いのですが、このアニメーションはその典型的パターンであったと言えます。この作品は実際に自殺者を出しました。さらに、近年で社会現象になった作品では「デスノート」があります。書いた人が死ぬノートの話です。実は、作者はラッキーマンの作者なのではないかと言われているのですが、そう解釈すると、デスノートは「アンラッキーマン的発想」なのではないかともとれます。手を下す事無く、書いた人間が死ぬというストーリーは、今日の精神的に異常な社会情勢下では発禁にもならず、検閲にも引っかかりませんでした。中国では違法として取り締まられています。これを許容する日本人は陰湿である事がわかります。中国の対応はまともなものです。
引用
同事務局は、「『デスノート』は神秘主義、死、復讐などの感情に訴える多くの要素をはらんでおり、児童の成長にマイナスの影響を与え、人格形成上良くない」とし、「全国各地でしっかりとした措置を講じて、取り締まりを強化、青少年の健全な成長に資する文化的環境は創出しなければならない」としている。   中国情報局より
民衆に殺人への強い意識が慢性的に存在していなければ、デスノートは日本でヒットしなかったでしょう。Lという名探偵率いるチームがデスノートを拾った少年を捕まえ、殺人の正当性を訴える少年に対して「あなたはただのクレイジーな大量殺人犯です」と言い切ってしまうのですが、どうも、日本でヒットする作品は極端なファンタジーものか、哲学的色彩の強いものと相場が決まっているようです。評価の高いプロダクションI.G.作品については、救いようのない暗いSF「攻殻機動隊」等で定評があります。秋葉原がただの電気街ではなく、怪しいオタクの街となったタイミングと、少子化の始まったタイミングは重なっている気もします。町おこしに発展した「らき☆すた」は、キャラクターのデフォルメをやりすぎてもはや人間に見えません。ガンダムについては、内容が直球の戦争の話ですので、希望が無いなと思います。私はガンダムの監督の目の前で「僕ガンダムってあまり好きじゃないんですよ」と発言した事が過去にあります。すごいビックリしたようなリアクションをされましたが、殴られたりはしませんでした。なぜか、設定が未来になっている作品で見事に良い未来を描いている作品が一つも見当たら無い、もしくは極端に少ないというのは、制作者や視聴者が、戦々恐々とした暗い未来の到来を何となく感じているからなのかもしれません。

・休憩所 世界初と世界一の作りかた
ここまで読んで疲れた人のための休憩所です。無意味な知識で脳をうるおしましょう。現実的で過酷な知識の話がたて続けに続くと鬱になるし、書いている私もしんどいです。
「世界初を簡単に実現する方法」
誰もやっていない事をやる。それを公表する。それだけでいいのです。例えば、トイレを持ってきて「これはモダンアートです。泉です」と言った人が居ます。世界初の事でした。マルセル・デュシャンの「泉」です。実は、世界初は日常の中に多々存在するのです。世界初は、誰も考えないであろう事を考えて実行するだけで実現します。例えば、「風が吹けば桶屋が儲かる」ということわざを、「風が桶に化ける」というふうに勝手にバリエーションを作ります。そのバリエーションを作ったのは私が世界初だと思うよ、と言えばいいのです。世界初は言った者勝ち、早い者勝ちの世界です。
「世界一に簡単になる方法」
既存の分野で世界一になるのが難しいならば、全く新しい分野を作り出して自分だけそれに挑戦し、世界一になりましょう。私はこの方法で、椅子から一歩も動かずにマックブックだけで3つの世界一を一時間で獲得しました。同時に世界初の事でした。「世界で最も長いAの羅列」と、「世界で最も長いLoveの羅列」と「世界で最も長いMoneyの羅列」の3つが、私のサイトにメディアアート作品として公開されています。
こういう、メディアの概念遊び的な作品は、メディアアートと言ってしまえばいいのです。重要なのは、「これは何何である」と宣言するという事です。私は過去に「絶望した!」という曲の中で計113回「絶望した!」と叫びました。これも私のサイトからリンクがあります。日本で最も絶望したと言っている音楽の作者は私です。これはあんまり嬉しくない日本一ですね。

・先端科学の話し
先端科学で有望でないのは、汎用ロボット工学のような気がします。専用ロボットは工場のラインから掃除機までありますが、汎用、すなわち人間型ロボットの開発は非常に苦労が多いです。2足歩行で走らせるだけでも大変な苦労が必要です。階段をのぼるのも大変で、もし仮に介護用人形ロボットが開発されたとしても、コストが高くなりすぎ、企業の株価つり上げのためのパフォーマンス用にしかなりません。それよりも、既にある生命というインフラを利用したほうが良いと思いませんか。これもまた倫理に抵触しそうな感じではありますが、エヴァンゲリオンが新しかったのは、人間もどきの電子制御をやっと可能にしたという時代という設定ではないかと思います。バイオ産業が日本の次の技術になるとの見方もあり、万能細胞と呼ばれるiPS細胞も日本人が完成させました。コンピュータは、頭脳とネットワークだけの存在です。手や足のようなアクチュエータがたいていの場合無いので、物理的なアクションが起こせません。しかも、未だに信号のオンオフしかわからず、いちいち指示書を漏れなく記入しなければ、まともに動いてくれず、一字一句間違うだけで、動作しません。現在アメリカで開発中の人間の脳をモデルにした超AIが完成すれば、プログラミングはコンピュータの仕事になるかもしれません。数百ある脳のゾーンのうち、数十はもう解析が終わっていそうです。そうなれば、プログラミング言語というインターフェースを介する事無く、ダイレクトに間違いなくプログラミングができ、人よりも高度で完成度の高いプログラムが書けるようになるでしょう。

・認識論
哲学の時間です。認識は全ての人間の活動の根幹を成します。何事も認識されない事には始まりません。人に認識されない宇宙に意味は無い、人に認識されて宇宙は初めて意味があるという人まで居ます。この点はコンピュータも人間も同じですが、違う点はクオリアを伴うか否かです。クオリアは、茂木健一郎氏をご存知の方も多いと思いますが、赤なら赤いと知覚する感覚の事です。コンピュータや機械は、疲れたと思う事もなければ、自分がしている仕事の事を全く知りません。コンピュータとはあくまでメディアであり、コンピュータが便利なのはプログラムが便利だからであり、プログラムを書いているのは人間です。だから、一般的によく言われる、コンピュータが便利だというのは誤用で、プログラマの書いたプログラムが便利なのです。コンピュータは自分がどんな処理をしているのかさえ知らず、ただ黙々と超高速で信号のオンオフを切り替えているだけです。ですから、ペットプログラムに名前をつけて可愛がったり、育てたりするのはあくまで疑似体験で、リアルではありません。しかし、リアルとバーチャル、実感覚と錯覚の間に明快な境界線はありません。また、virtualという単語は、仮想という意味合いの他に「事実上の」という意味があります。例えばボクシングで事実上のチャンピオンの事を「バーチャルチャンピオン」と呼びます。我々の認識の最小単位は、個人です。個人は、個々人の頭蓋骨の中に閉じ込められています。我々は限られた感覚の中で、不完全な情報を認識し、イデアを処理し、環境やシステムにフィードバックして生きています。我々が、頭蓋骨という檻の外に出られる事はありません。認識論的には、リアルよりも、純粋なイデアのほうがリアルなのです。街は人工的なイデアで満ちています。人は真のリアル、すなわち最高に出来の良いバーチャルリアリティーを求めて彷徨うのです。

・形而上学からの脱却、離脱、解放
霊感とカルマと行動によって、あなたが人類共通の精神の落とし穴、形而上学から抜け出せるか否かが決定します。本人の努力次第です。天は自らを助ける者を助けます。なお、企業の歯車として激務をこなす事は、自らを助けているとは必ずしも言えません。何が正しいか、正しくないかは常に自分で判断すべき事です。そう言う私の文章が正しいか正しくないかも、自分で判断するくらいに、自分で真偽を見極めてください。この先は今までに無いタイプの激動の時代です。学べるか、学べないかにかかっています。なお、学べるか学べないかは、学校に通っているであるとか、教育を受けているから学んでいるという事にはなりません。自分が本当に「学べている」という感覚がある時が、学べている時なのです。サンスクリット語の幸福という意味の言葉で、このシリーズを終了させて頂きます。スーカム。