ITはもう進歩しない。間違いないと考える。
なぜかというと、こういう事だ。
ITはプログラミングされたソフトウェアによって進歩する。かつて、コンピュータの速度は人間の可能性を下回っていたが、今は上回っている。今のコンピュータの性能を使い倒すだけのプログラマがなかなか存在しない。であるからして、この先どんなにコンピュータの性能が上がっても、それを使いこなすだけのプログラムが存在しないのでITの進化は止まる。
ごく一部に、スーパーコンピュータを使った大規模計算が存在するし、それは発展していくだろうが、人間の創造力と考える力には当然限界がある。人間が飛躍的に進化しない限り、その限界は打ち破れない。例えるなら、天井が高い部屋の中で、人が一生懸命ジャンプしても天井に手が届かないというのと同じ理屈だ。
さらに、仮にプログラミングの天才が居たとしても、あくまでそれは人間の範疇を逸脱しない程度の能力であるし、既存の概念を全て塗り替えるような発明はもう出てこないだろう。さらに、プログラマがたくさん居る中で、他のプログラマが理解できる範囲での開発となると、どうしても多くのプログラマに理解できるコードを書かなくてはならなくなる。つまり、一般的なプログラマのレベルに落とさなくてはならなくなる。オープンソースプロジェクトは、そういった問題も抱えている。
計算は、答えがいくつも出るものではない。仮にあるゴールに向かってプロジェクトを複数のチームが進めたとしても、おおむね結果は同じだろう。計算結果の正解は、誰が考えてもだいたい同じだからだ。
コンピュータが普及し、プログラマが増えたからといって、ITのレベルアップが期待できるわけではない。
あらゆる産業で、我々は、人類の可能性の限界へと突入しているのだ。
むしろこれから必要なのは他のプログラマに理解できないような高度なプログラムを書く天才プログラマよりも、低レベルなプログラマにわかりやすく使いやすいプログラムを書くプログラマがもてはやされるだろう。
一人の開発力、開発速度には限界がある。チームであればその限界を押し上げられる。もし、人間の可能性の天井を目指すプロジェクトを押し進めるなら、凡才プログラマを入れない天才だけのプログラミングチームを作らなくてはいけない事になる。その例が例えばGoogleであったりするが、情報の完全な共有(データ的にではなく、脳的に)は不可能であるからして、次の世代のプログラマに託す作業を怠っても怠らなくても、プログラムのレベルがが進化していく事は不可能だ。よしんば時代が進んだところで、バリエーションが増えるか統合されるか、地道な改善ができるだけである。
仮に人の可能性の限界ギリギリのプログラムを書いたところで、そのプログラミング言語とそれが走る環境が保持されないと、そのプログラムは動かなくなってしまう。改善を加えようにも、書いてある事がわからないのでは意味がない。
プロセッサの速度やメモリの容量が上がっても、人の進化が現状のスローペースである限り、次のITのレベルのブレイクスルーはもう望めない。せいぜいインターフェイスの変更で進化したように見せかける事しかできない。
人の可能性は有限である。有限の中で他者とどう折り合いをつけていくか(つまり、うまい妥協ポイントを見つけられるか)がかかっているのである。プログラミングにおいて必要な人材は、妥協がうまい人物であって、飛び抜けてしまって他のレベルにあわせられないプログラマではない。反資本主義である、誰も儲けられない共産主義以下の思想、オープンソースがもてはやされる頭の悪さ加減を見ていると、やはり絶望的だなと思わされる。
なんでもタダならいいのではなく、利益を提供するものには代価が支払われるべきであり、その代価が循環することによって人は生きていける。1社で儲けを手放さないのも頭が悪い(循環を止めてしまう)が、何でも無料にしてしまうのも循環を止めてしまうので同様に頭が悪い。WindowsもLinuxも両成敗である。Microsoftはお金を集めてはいるから、慈善事業もできるがLinuxには全くお金がないから慈善事業もできない。では儲けが分配されるようにしようというのが社会主義だが、これだと、がんばるだけ損という事になるので誰も働かなくなる。であるからして、適正な価格設定がなされるように価格観察機関を儲けた上で、儲けが、全てではなくある程度のパーセンテージだけ分配されるようにすれば、ベストではないがベターなのではないか。これを私は「妥協主義」と名付けよう。
電脳戦記バーチャロンの設定ではないが、限られた可能性の中で細々とやっていくしかなくなったのだ。まだこの記事は早いかもしれないが、後に普通の事となるだろう。
人間はあいまいな存在である。究極的に突き詰めれば、極論、死ぬか壊すかになってしまう。あいまいなものは、あいまいなままにしておく。これが生きるという事である。哲学的になってしまうが、突き詰めるのではなく、ゆるやかな妥協をしていけば人類はあいまいさを保てるが故に存続できるだろう。
だが私がこういう記事を書いた所で、普通のレベルのインテリであれば、図星なのにも関わらず難癖をつけてかかるか、意味や根拠が不明の罵詈雑言を浴びせるか、無視するだろう。人間そのものがベストな存在ではないがゆえに、人間はベストの選択肢を見つける事ができない。できるのは、ベストではないがベターな選択肢だけだ。
先の尖ったエッジでは、風船を触ると割れてしまう。だから、
風船を持つ手は普通に柔らかくなくてはいけない。
風船はやわらかく、あいまいだ。あいまいさを保つには、
限界に挑戦するような過激なエッジ思想はむしろ慎むべきである。
子供に与えるべきは風船であって、針ではない。