2008年5月11日日曜日

Genius

ボンサグールでこういう記事を見つけた。なるほどなるほど。

「天才という言葉を軽く使ったらダメですよ、絶対」

・・とは、某Skype会議通話で、私が声を大にして言った言葉である。

天才という言葉は、多くの場合、言われた当事者にとっては甘い蜜だ。また、言葉としても安易に使用しやすい。それだけではなく、「天才に近づきたい、お近づきになりたい」という無意識の欲求は誰もが持っているものであり、意外なほどの確率で、そのあたりで使われている言葉でもある。

しかし、この言葉は多くの場合、言われた者の人生を狂わせる要因になる。私の場合も、知能指数テストやそれに類するテストというものには「こんなもので本当に測定できるのか?」という疑念を抱いている。私の場合、IQテストや、何をもって天才と言えるのかという事についてはかなり早い段階で定義した。すなわち、

IQテスト→あくまで一つのいいかげんな指標にすぎず、IQが高いから成功するという式は成り立っていない。

何をもって天才と言えるか→IQテストではなく実績によって評価された結果。

と定義した。どことは言わないが、天才とは何かを話し合うSkype会議通話コミュニティがあった。そこで私はある時、声のきれいな女性シンガーに「死ねばいいのに」と言われた。

想像がつく通り、そのコミュニティは本来、天才コンプレックスの集まりだった。そこに、特にコンプレックスもなく、人からそう言われた事もある人(自分)が混入した事によって、「目線が違う」などと因縁をつけられ、先の死ねばいいのに発言が飛び出した。

天才とは、良くも悪くも突出した存在である。欲しいけど手が届かない人にとっては、そのまま嫉妬の対象になるし、当事者にとっては、自分にとっても手に負えないものになる。上記の記事では、天才を強力なエンジンに例えているが、僕の場合は、エンジン以外の部分が人並みか、人並み以下なので、アンバランスだ。このアンバランスさを肯定できる環境というのは、そう滅多にない。結局、コードのある環境であるとか、自分と似た人たちの居る所に身を置かないといけない。

ちなみに、普通の環境下だと、アンバランスで人並み以下なので、最終的に体調を崩してダメになる事が多い。私の場合は、十二指腸潰瘍を患って下血するなどの憂き目に遭った。今でもその後遺症、再発の恐れがある。ちなみにだが、胃潰瘍や十二指腸潰瘍というのは、こういった話にはよく出てくる病気だ。

上記リンクの例に比べると、私はまだ幸運なほうかもしれない。つまり、客観的な状況分析と割り切りが早かったのである。自己分析が良い結果をもたらすという事は早期に発見したので、それ以来、毎日何回も客観的な自己分析を行うようになっている。

ただ、昔は、自分が天才的なものを持っているのに、それを悪用されたり、普通の環境下でさんざんな目に遭ったりして、呪わしい気分でいっぱいの時があった。つまり、私が受賞するより以前の話である。

私はわざわざ、経歴に「ブランドやランキングは重要ではない」的な事を早い段階で書き加えている。これは、なるべく早く書き加えたいと思っていたもので、言える立場になったらすぐその旨を書き加えようと、今か今かと待っていたのである。

天才は、自殺などの憂き目に遭う事が多い。一時期、天才が自殺するのを防ぐちゃちな方法論を考えて載せていた事があったが、他ならぬ自分自身が内容に納得できなかったので消してしまった。天才の憂鬱は、似た人たちにしか理解できないし、許容もできない。近しい者にとっては、たいていの場合迷惑な存在でもある。

アメリカ式であればともかく、右にならえの日本式では、単なる使いにくい駒でしかない。だがしかし、アメリカ式でも本人がつけあがる等の問題点が多々あり、どういう方向で考えても、天才というのは扱いにくい。凡人にとって迷惑で扱いにくいからこそ、天才は、生きるためには天才同士で集まるしかない。その例が例えばグーグルなどであったりする。

もともと、突出した(言い換えれば異常な)存在であるために、しばしば問題行動も起こす。グーグルも、にわかに考えにくい問題行動を起こしている。組織によっても違うだろうが、私の知り合いの予言者に聞いた所では、グーグルの場合は内部崩壊するそうだ。(もちろん、本当かどうかはわからないが。)

天才は多くの場合、災厄を運んでくる。核も各種兵器も、天才たちが作ったものである。世の天才たちがもたらしたマイナスとプラスを足して人数で割ったら、間違いなくマイナスになるのではないか。だとしたら、天才である事は包み隠して、「天才ですみません」くらいの気持ちで居た方がましだろう。

天才と言われた事のある人たちに言っておきたい事がある。自重せよ。おごり高ぶるな。謙虚な姿勢を忘れるなと。同時にこれは、自分に言い聞かせている事でもある。

天才が憂き目に遭わずに生きるには、(良いタイプの)天才が集まる場所(一種の村)に住み込むしかない。天才は、お互いに気心の知れた人しか居ないせまい村の中でしか生きられないかわいそうな存在なのである。

天才を天才と呼ぶ人は、こういった天才のデメリットなどがわかっていないので、本来、安易に天才という言葉を使ってはならない。言葉に出さなくても、「あぁ、この人は天才だな」という事は内心で思っていればそれでいいのである。

天才たちが、お互いに生き延びるために形成する「村」の中は独特である。たいていの場合、天才のまとめ役が居て、まるでその人は幼稚園の保母さんのようだ。リーダー的存在は、村の中では目立たないようにして、なおかつ対外的には目立つ役を引き受けている。村の中では、目立つ事は避けたい事なのである。そういう意味で、天才村の村長は本人にとってあまり良い立場ではないのかもしれない。

そういう限られた意味で、中村剛志という名前は、村の中の剛志なので、あまりに平凡だが、悪くない名前だ。

私は、誰が自分を天才だと勘違いしていても別にかまわないのじゃないか、とも思っている。自分の都合の良いように思い込みたいがために、人はあらゆるアクションを起こすのであって、実際のアクション抜きで、理屈が破綻していても、自分が思い込んで幸せならそれでいいんじゃないの?と思っている。

「ライトでいいじゃん!何が悪いの?」とは、天才村の保母さん(というか保父さん)の言葉であるが、(ディティールは違うかもしれないが)こういうノリ、好きです。