2008年10月10日金曜日

建築と平面についての考察および哲学的余談 ver2.0

新曲「synthesis diver」
http://hogehoge-podcast.seesaa.net/article/107874156.html
BGMとしてお使いください。

建築物は、古今東西どこの建物も、平面に接地される事を前提としている。平面に接地されていない建物というのは基本的にない。すなわち、建築を建てるにはまず建てる場所に平面を確保する事から始めなければならない。斜めになっている立地なら、土を盛ったり削ったりしてわざわざ平面にしなければならない。ここでいう平面とは、地球の重力の方向に対して平行な平面の事である。(当方ではこれを仮に「G平面」と名付ける。)

平面は、歩くときにストレスが最小であると同時に、ものを安定させて置く事ができる。考えてみれば、傾いた家では、コップを置く事さえも不可能だ。傾いた机や椅子では、人は落ち着いていられないだろう。人は、生活する、そこに居るという事に関して、平面に安心感を抱くようにできているのだ。家具等も、四角形で統一する事によって、収納の無駄ができないように人類は進化してきた。例えば丸い部屋に、四角いタンスは置きにくいしデッドスペースができてしまい、また安定もしない。

ただし、家具と建築を完全一体型として全て一から設計する場合においては、自由なデザインが可能であり、この限りではない。

そして、建設される建築物はキューブを基本図形としている。自然界に立方体や直方体などのキューブは存在しないのに、人はそれを建てる事を好む。つまり、たいらではない土地をわざわざ平面にならし、そこにキューブを建ててそこに居たいという事になる。これには何かそういった根源的な欲求でも存在しているのだろうか。

しかしながら、完全な平面と完全なキューブの、いわゆるホワイトキューブの住宅などは、例えば子供が家について苦言を呈するなど、人によっては非常に居心地の悪いものとなってしまうから不思議である。

かといって、ホワイトキューブは生活感ゼロで落ち着かないからと言って、無駄な曲面や自然界の色を取り入れた建築を作る人も居るものの、残念ながらこういった建築は全く美しくないと個人的には感じる。しかし同時に、ホワイトキューブ住宅特有の居心地の悪さというものも人並みに感じる事ができる。

ホワイトキューブや、単純図形を用いたシンプルモダンの建築は、どう見ても明らかに人工物であって、デジタルの匂いがする。CGで単純図形を描く事は簡単だが、それをそのまま実現させたような形をしている。こういったシンプル系の建築は、言わば自然環境と対立している。対立する周囲と建築という構図は、それ自体矛盾ではあるものの、ホワイトキューブくらいに思い切りシンプルにしてしまえば、逆に引き立って美しく見える。ただ、建築雑誌等ではあまり紹介されない部分であるが、平面の立地を作った時に生じた「無理」が必ずどこかに生じてしまう。そして、そういった部分は美しくない。また、シンプルモダンの建築は、竣工の時が一番美しく、その後だんだんと、シンプルではない周囲の環境、例えば雨風などにさらされて形がくずれていったり、変色していったりする。シンプルモダンのデザインは汚れが非常に目立ってしまうのも難点に挙げられる。故に、シンプルモダンの建築には通常以上の耐久強度が必要になり、また、汚れを落としやすい材質を使うべきである。

対して、建築の周囲の自然環境に妥協して、曲線を取り入れた妥協型建築は、崩壊しにくく、汚れもさほど目立たないが、洗練された印象を持たせる事は非常に難しい。シンプルモダンと比較すると、どうしても野暮ったい印象になってしまう事は避けられない。

人が自然と調和して住むには妥協型のほうが適しているであろうが、そこにデザイン性を持たせる事は困難になる。このように、どちらにしてもよろしくないというジレンマを建築物は抱えている。

このジレンマを解決するためのキーワードはいくつかある。

・平面を作るという事に関して寛容な接地の仕方をする
・汚れを落としやすい壁、床などの材質にする
・長期的に見て環境が建築に与える影響を考える

平面に関しては、そもそも長く平面が確保されていた場所にしか建築をしないという方法もある。

曲面の使用に関してもいくつかキーワードがある。
・無意味な曲面、心理的効果を狙った曲面は不要で美しくないので使わない
・住宅専用の家具との融合を目的とした機能的な曲面は採用すべきである

また、たいらではない場所に平面を確保する時にどうしてもできてしまう不自然な段差は、「ひな壇もしくは階段型」にするという解決策もある。ただ、この部分に関しては、完璧な処理が難しいので、ある程度諦めたほうが良いだろう。

我々はまだ新しい建築のあり方にについて考察と改良の余地が多分に残されており、現状の建築もおそらく正解ではない。これからも試行錯誤が必要になるだろう。いや、完璧な建築など存在しないのかもしれない。人間が完璧な構造の存在ではないように、人間が考えて作った、人間の器たる建築もまた、不完全な構造で、いつかは壊れるものなのだ。「周囲の環境になじみつつ、デザイン性も損なわない建築を作れ」という命題は、非常に難しい、酷な問題である事がわかる。

あとは哲学的な余談になるが、この命題は人間の精神にも当てはめる事ができる。「周囲の人間関係になじみつつ、デザイナーとして優れなさい」という命題もまた、非常に難しい酷な問題である。何がこれらの問題を難しくしているかと言うと、本質的に「変わりつつ変わらないでいなさい」という矛盾が与えられているからである。人間という不定形の物体もまた、変わりつつ変わらないという命題を生まれながらにして抱えている。日々、体と心の形は変わっていくものの、その人が「○○さん」である事は変わらないでいようとしている。また素粒子レベルでは、3時間経てば別人のようだ。

また、物事を突き詰めて考えると、どんな分野でも最後の敵として「矛盾」が出てくる。しかし同時に、その矛盾そのものが真実であるのだ。世界は矛盾そのものであり、不確定性そのものである。ダイナミックとスタティックが同居していて、同時にそのどちらでもない。この矛盾を理解できて、なおかつ受け入れられないクリエイターは苦しむ事になるだろう。この世の絶対的な矛盾を受け入れるには、いわゆる(心の)器の大きさが必要になるのかもしれない。

逆に、矛盾の存在しない世界には相対性というものも生まれないので、世界そのものが最初から成立しない事になる。矛盾とは、世界そのものなのだ。そして我々は、世界そのものの一部、構成部品である。これはおそらく全ての人にとって大変残念な現実であるが、我々はこの不完全さとあいまいさ、そして永久に保証されない安定性を内包し、かつ常に相対しながら日々を暮らさなければならない宿命なのである。これは、「人類に残念なお知らせ」としか言いようが無い事であり、矛盾から世界を作った何者かの責任は極めて甚大である。よって、世界を作った何者かと、それに属するものは、人類を助けなければならない義務が自動的に発生していると考えられる。そして過去から現在に至るまで人類が救済されていないのは、そのグループの不手際と考える事ができ、世界はリコールされるべき製品であるとも考える事ができる。普通、電化製品の場合、リコールされれば回収されて修理されるが、現状ではそういった動きは無い。つまり、現状の世界をリコールされるべき電化製品だとすると、リコール隠しという怠慢、責任放棄に他ならない。我々には、「大いなるクリエイターに」我々と世界のリコール、修理を求める権利がある。客観的に見ても、これは一方的な契約不履行、もしくは大規模なモラルハザードが起こっている状態と言えると思う。

あえて私は言おう。

そもそも、産めば不完全な障害児になり、苦難の人生を歩む事が、産む前からわかっていた赤ん坊「世界 人類」くんを、産まなければよかったのではないか?と。

最終的に、今日のように育児放棄し、結果的に世界 人類さんが苦しむくらいなら、最初から産まないほうが赤ん坊にとって良かったであろう事は明白だ。

しかし、もし「これから世界が救済される予定」だというなら話は別になってくる。我々にできる事は、その救済を祈る事と、その時に救済される人間であろうと心がけ、実行する事である。