2009年1月10日土曜日

生命体についての考察

本論では、あくまでも科学哲学の観点から、生命体を考察する。

性とは、文字通り、生命を持つ個体の持つ基本的性質の違いである。性別が男性である場合と、女性である場合とでは、肉体から人格に至るまで違いが認められており、例えば男性であれば男性器があり、肉体は体毛が多くひげがよく生え、女性に比べて筋肉質であるなどの共通する特徴が見られる。

しかし、性別の無い生物というものも存在する。その多くは原始生物、すなわちバクテリアや微生物といったものである。

無性の生物も、有性の生物も、一代の生命体としての最終目標は同じである。すなわち、次世代の子孫を作るという目標である。これを当方では、「終わりなきバトンリレー」と呼称する事にしている。その種自体が滅びない限りにおいて、生きるというバトンを次世代、つまり子孫に渡して自分が死ぬ、そのバトンを渡された次世代が次次世代を産み、次次次世代にバトンを渡す、という事を理論上は永遠に繰り返すからである。当方ではこれをさらに「無限ループ逃避活動」とも呼称する。人生を、バトンを渡す事に精一杯で、自分の人生を生きようとしないまま、次世代にバトンを渡してしまう事はよくある事で、さらにその次世代も、自分の人生を生きないままに、バトンを渡す事に夢中になってバトンを次に渡してしまう。

そもそも、何のために生命体は存在しているのかという疑問がここに呈されるが、性にまつわる人間の基本構造を見る限り、「バトンを渡す」という事に最大の重点が置かれている事には、もはや疑問の余地は無い。人間は犬や猫と違っていつでも発情期であり、その思考内容のかなりのパーセンテージは「性、食、生命維持」に関する事であり、それは微生物と何ら変わりない。

もし、生命の設計者が、自分自身で、生命の存在理由を見いだせないまま生命を作ったのだとしたら、永遠に同じ個体が生きるのではつまらないので、一定期間で個体は死に、子孫という形でひたすら次にバトンを渡し続けるという構造にした、という事は考えられないだろうか。私は十分あり得る話だと思う。つまり我々は、生命のクリエイターが出せなかった答えを、何千代かかっても出せないという生命であり、言わば哀れな失敗作なのである。その失敗作がどんなに頭をひねった所で、生命のクリエイターが出せなかった答えである「生命の存在理由」など、わかろうはずも無い。また、性という生命の根本原理に逆らって生きるという事は、生命体であるが故に非常な苦痛を伴う。

故に、我々は生命体とは神の失敗作であるという真実を早期かつ素直に認め、生命の基本原理にのっとって生きる事が得策であるという事になる。

ここで大切なのは、生命の存在理由などといった、大きな哲学的命題を無視する事である。我々は所詮、失敗作の生まれであるから、失敗作として生きれば良いだけの話である。言い方を変えれば、足るを知れという事である。

また、交わりと自己増殖という基本モデルは、性のみならず人間の諸活動全てに見いだす事ができる。例えば、有名になりたいという願望は、自分と言う概念を多くの他人に認識させたいという意味で、自己増殖的である。自分の製品や作品を世界に認めさせ、流通させたいという欲望もまた、極めて自己増殖的である。このように、人間という存在は、高度な事をしているように見えて、実は意外なほどに微生物のレベルから、基本的には何も進歩していないのである。家電製品やメディアが進歩していく様子は、生命体の進化に似ている側面があるが、これもまた微生物の根本原理から抜け出せていない。

このような観点からは、むしろ、他の種や自然風景、植物といった種のほうが、むしろ微生物から進歩していると言える。君の行動モデルは微生物と同じと言われて、人間はもっと高度だと言いたくなる人は多いだろうが、自分の今までの活動を、あくまで科学哲学的に見直してみてほしい。本当にそう言い切れるだろうか?

多くの人の性質は、原始的である。ゆえに、ある人が多くの人に理解されるという事は、その人が原始的であるという事になる。さらに、何かが世界的に理解されるという事は、その何かが原始的に筋が通っているだけ、という事になる。デザインや設計という行為もまたしかり、である。偉大なクリエイターも著名人も、実は何ら創造的ではなく、単に生命の基本原理に忠実な、生命の基本原理の忠実な奴隷であるだけなのである。

つまり、「性、食、生命維持」というこの3つを全員で自覚し、それに特化した社会を構築すれば、基本的にはいち生命体群として幸福が約束されるのである。残念ながら、我々は意外なほど、それらで満足できるように設計されているものなのだ。

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