2008年4月5日土曜日

アンチID個体差主義

よく、運動の才能は天性のものとされる事が多いが、知的な才能は果たしてどのくらい天性のものなのだろうか。残酷な話だが、結局どちらも、生まれつき持って生まれた能力に左右される事が多い。もう一つ重要なのが、才能は本人や環境によって磨かれなければ、また、適切な環境下になければ光らないという事だ。例えば、仮にその人にプログラミングの才があったとしても、家族にプログラマーやコンピュータに理解のある人が居なかった場合、どうしてもコードに触る年齢が遅くなる。そういう意味では、実はものすごい才能を持っているけれど、たまたまその環境下に無かったせいで全く発揮されていない例が非常に多い事になる。これは明らかに事実だが、そういう意味では、才能とは運であるという事になる。例えば、途上国に生まれた場合はそもそも挑戦する事ができないし、満足に教育も受けられない。最近、低価格の小型ノートパソコンを途上国に配布するという動きが多いのは、インターネットにつながるのとつながらないのとでは、途上国の子供にとって天地の開きがあるからだ。

本人の持って生まれた能力というのは、例えば鳥なら空を飛べて、イルカなら泳ぐ事ができるようなもので、先に述べたように人間の才能は色々と条件がそろわないと多くの場合花開かない。そんな残酷きわまりない指針で人を簡単に判断するのはいかがなものか。その先には必ずと言っていいほど選民思想が待っている。よく思う事だが、評価する側の一般人は評価する事に責任が無いと思っている。優れた能力を優れていると言う事に当然罪は無いと思っている。だがしかしそれは間違っている。評価するという事は、レッテルを張るという行為に他ならないし、普通、評価する側は本人がその後どういう目にあうかという事を考えていない。評価する事には本来、責任を持つべきである。

しかし、優れている(ことが明らかになった)からと言って評価するのは残酷だから一切しないというのでは、色々と支障が出てくる事もまた事実である。これを私は「評価のジレンマ」と名付けよう。世の中は、生まれてきた時点で、家柄や才能や容姿などの不公平が発生している。もし、遺伝子工学等やそれにまつわる政策が発達普及した結果、みんなの能力が均一に天才的になれば、こういったジレンマは発生しないし、レッテルに人が右往左往する事もなくなるだろう。だがしかし、それは今の所、夢物語にすぎない。

つまり簡単に言えば、たまたま才能が光れる場所に居て、たまたま才能を持ち合わせていたという事は、きわめて不公平で才能が与えられる事が無根拠であるので、ラッキーな事である。ゆえに、才能ある人は「何の理由も無しに、自分だけずるいなぁ」と思わなければならない。むろん、才能ある人は生まれる前に自分で才能を選んできたわけではないから、厳密にはずるくはないのだが、その運の良さ、巡り合わせの良さ、自分だけたまたまそういった力があった事に何とも言えない当惑やずるい事をしているような一種のやましさを感じるべきである。

しかし、才能(つまりは個体の能力差)にまつわる話はまだまだ掘り下げていけばきりがないほど複雑だ。先に指摘した通り、要は才能とは生物学的に言えば「均一でない個体差の問題」であるのだが、個体差の問題ほど残酷なものは他にはなかなか無い。これは別に人間に限った話ではなくて、動物や植物等でも、優れた個体はおいしい思いをする事が多いし、劣った個体は気の毒な思いをする事が多い。それでは、才能とは逆の位置にある障害を持つ人があまりに気の毒だというので、人は色々な障害者の救済策を表向き用意している。しかしその実態は結局のところ、偽善者の自己満足に利用されているだけで何ら評価する価値がない体制でしかない。動物や植物は同じ種であれば、ある程度同じ能力を持つ事が保証されているが、人間だけはなぜか個体差がきわめて著しい。あまりにも個体差が激しいので、最近のインテリジェントデザイン等の考えの上で言うならば、意図的に偉大な知性体が極端な個体を作り出しているのではないかと疑うに十分な証拠がそろっていると言える。

もし人間の才能、個体差が、インテリジェントデザイナーによるものだとしたら、それを評価してコンペティションをして優劣を競ったり、その結果に一喜一憂する事はナンセンスだ。それこそ、インテリジェントデザイナーの期待するドラマを展開している事になる。あなたはその事を何とも腹立たしい事だと思わないだろうか?私は思う。この、インテリジェントデザインによる意図的な個体差劇を良しとしない主義の事を私は「アンチID個体差主義」とでも名付けよう。