2008年4月6日日曜日

計算結果にクオリアは生まれるか 中村剛志

(この記事は、全ての物理現象が量子コンピュータシミュレーションの結果であるというブライアン・ウィットウォースの論を前提にしている。)

日常の中で人は悟れるという。その意味するところは、日常的な現象の中に全ての法則が折り畳まれているという事と私は解釈する。

クオリアと物理的な現象は無関係であるという説が根強いようだが、それでは基本的な見落としをしている事になる。ほとんど全てのクオリアは、物理現象の忠実な結果としてしか生まれない。私たちはクオリアという概念を特別なものだと思っているが、実は何ら特別な事ではないのではないか?(今回は、脳内現象も物理現象に含むものとする。)

クオリアがもし人間に無かった場合、脳内の情報処理に大きな不都合が生じる事が予想される。つまり、クオリアが感知できないというのは、認識ができないという事と同義であるから、五感の全ての感覚を感知する事ができず、事実上入力が止まってしまうのである。ゆえにもしある人が、突然クオリア機能が停止してしまったら、少なくともその場に倒れ込んでしまうだろう。立つ事もできない。クオリアがあるからこそ、人は認識をする事ができているのである。

コンピュータがデバイスを認識したりするのは、あくまで人間から観測して認識しているように見えるだけであって、もしクオリアを伴う認識のみが認識と言えるのだとしたら、コンピュータがデバイスを認識する事はつまりこういう事になる。「観測者たる人のクオリアを伴う認識が、コンピュータがデバイスを認識したと認識、解釈している。」だがこれをいちいち言うのは長くて面倒であるため、認識と縮めて言っているのだ。こう考えると、認識とはクオリアを持つ者だけの特権という事になる。もし、人がこの「認識を認識する」という内包的な事ができないとしたら、コンピュータを設計する事もできていない。ゆえに、現在コンピュータによって設計されているコンピュータは、最初のコンピュータ設計用コンピュータが人による認識による認識の数多くのフィードバック作業が無ければ誕生できていなかった事になる。

ここで筆者は、大胆な発想の逆転をはかる。クオリアと物理現象は別個のものではないと考えるのだ。それは、生体の計算結果には主体が何であれ必ずクオリアが発生しているというものだ。生体的な運動の結果としてクオリアが自動的に出現するという考えである。この考え方であれば、なぜクオリアがことごとく計算結果に忠実に現れるのかという事が説明できる。

簡易な自立制御プログラムでは、「厳密に定められたこの条件がある場合はこのように行動せよ」という記述が多い。クオリア無しだと、直感的にこれはこうであるからこうするべきである、という考え方ができない。ゆえに、いちいち条件とそれに対応する行動を指定してやらなければならない。クオリアを自立制御プログラムに植え付ける事ができれば、いちいち指示書で厳密に規定する必要が無くなる。クオリアがあれば、幼児を育てるのと同様に成長させる事ができる。学習プログラムがどうしても超えられない例外という壁を、クオリアはいとも簡単に突破してみせる。「規定外の事が起きても、クオリアがある場合は規定外とはならない。」ここが重要と思われる。

こうなると話はかなり簡単になる。つまり生体の運動・計算結果にはなぜクオリアが出現するのかという点のみが未解明なだけという事になってくる。AIにクオリアを持たせる事は、生命を誕生させる事に等しい。

結局、クオリアとは認識している事を認識するためのシステム要素であるだけなのである。認識を認識する事によって初めて選択を選択する事ができる。それが、クオリアを伴う情報システム、すなわち生命体システムである。認識している事を認識している、という入れ子構造で初めて本物の認識は成立する。認識単体では真の認識に至る事はできない。つまり、認識の枠の外に出てそれを認識しなければならない。言い換えればこれは超越的な視点であって、インテリジェントデザイナー的な視点である。クオリアを持って認識を認識しているが故に、人はインテリジェントデザイナーと似た精神機能を持っている事が予想される。

ここまで言うと、実は、認識を認識するという事はコンピュータシミュレーション上で可能である事がわかる。インテリジェントデザイナーから見て、クオリアという手法が、先に述べた認識の入れ子構造を実現させるために手っ取り早い方法であったために、多くの生物にクオリアがあるのだろう。そして我々もまた、コンピュータシミュレーションの産物なのである。この考え方だと全ては一貫していて不自然な所がない。

今までの文の内容を応用して、対象の被検体にクオリアがあるかどうかをテストする方法は簡単である。テスト用に用意した丸い赤イラストを見せて、さらに全く同じ色と形の赤いものを見せる。このテストは赤色に関する学習無しである事が前提になるが、テストの結果、同じ感じである等と答えた場合は、被検体は認識を認識しているが故にクオリアを持っているものと推測できる。

このように、事前学習無しで認識を認識する事ができる能力こそがクオリアであるのかもしれないと私は考える。(というよりも、主体にクオリアがある事によって、事前学習無しで認識を認識する事ができる能力が「安易に」備わるのだろう。つまりクオリアとは、「認識後の例外処理が存在しない直感的な入れ子型認識能力」なのである。

美しい自画像を描く象