2008年4月1日火曜日
中途半端なVRの惨めさとその発展についての絶望的観測
バーチャルリアリティー(VR)は歴史的にまだ始まったばかり分野である。ファンタジーや空想をもとにした作品は多いものの、画面上もしくは額縁上のラインから出てくる事はもちろん原理的に不可能であって、あくまで2次元上の仮想の産物であしかない。よく、人は3次元空間に生きているというが、それは錯覚である。「情報の投射された世界がこの世界であり、この世界はスクリーン上の現象である」などの宇宙論はいくつかあるが、3次元と認知されるものは脳内では一枚の絵、すなわち最終的には2次元化されている。ここからはややこしい話になるのだが、空間の捉え方は3次元、脳内での像である見方は2次元として扱われている。もし、人間が2次元的に3次元の世界を見る能力を持っていなかったら、2次元的な絵の中に3次元を見るという事ができないはずである。また、よほど簡略な絵でない限り、我々のものとものの距離をはかる能力が3次元であるので、描かれる絵もまた3次元を表している。幾何学模様のイラスト等をのぞいて、基本的に我々は2次元の中に3次元を描くし、逆に、2次元の中に表象された3次元を見る事もできるのである。ARtoolkitなどは、結果をシースルーHMDに投射する事ができれば、若干の認識の齟齬はあるかもしれないものの、2次元と3次元の重ね合わせによってミクスドリアリティが得られる事が既に確認されている。しかし、リアルタイムで鑑賞に堪えるオブジェクトを生成するには、システムボードと電源と廃熱処理機構などのセットを持ち歩く必要があり(ノートパソコンなど)、それを抱えたまま移動する事は困難である。これを、ウェアラブル可能な重さと大きさに限定すると、貧弱なオブジェクトしか生成できない。つまり、満足のいくファンタジーを携帯し、ミクスドリアリティ化するという事は現状の技術では不可能である。そういった体験をするためには、前準備のなされた限定的空間を用意しなければならない事になる。また、シースルーHMDはアプリケーションに恵まれておらず、技術的にもまだ未完成らしいので、普及も期待できない。結局は、先端アートなどにちょっと使われて終わりである。歴史的に始まったばかりのバーチャルリアリティーに関する試みはどれもある意味で貧弱で、それ故にかえって人を落胆させる事がある。それは一言で言うと、ロケットを打ち上げるというのでわくわくして行ったら自家製ペットボトルロケットの事だった、というのに似たガッカリ感である。先端科学は豊かな時代と場所でしか発展しないが、この先はすさまじい時代になるのでその進歩も望めなくなる。これで、よりガッカリ感が強まる事になった。人々がノートパソコンをカバンにいれて、シースルーHMDで夢を見るという時代は来るのだろうか。ただ、現実世界は平坦ではないし、認識用グラフィックが至る所にあるわけでもない。実用化は事実上不可能と言ってもいいだろう。量子計算機とそれを使いこなすだけのプログラムが無いと不可能である。だがおそらく、作る当事者の人間にとってそんな時代は来ない。そういったプログラミングができるのは、人間の脳をモデルにしたプログラミング用汎用AIだけである。さて、「量子計算機」と書こうとしたらことえりは間違えて「漁師計算機」と出してくれたのだが、この計算機は漁師が何に使う計算機なのだろうか。魚の集まっている場所を割り出したりするのだろうか?(笑)