セキュリティは、ネットワークにつながる端末を触るものにとって誰にとっても重要な問題だ。Mac OS Xは最新版のレパードでさえセキュリティ設定が無効のまま出荷されている。しかし立場上この事については触れない。私は予言しよう。「Mac OS XとiPhoneの上で、これから大規模なサイバー被害が出る事になる。」理由は、セキュリティへの考えの甘さにある。
自ら問題を作って、それを解決する本を書いて儲けたり、対策を講じて儲けたりする「マッチポンプ」もよくある話である。
通信というものは、ISP、NTTなどの全ての通信提供者に傍受されているというのが私の考えだ。例えば、たとえが悪いかもしれないが、テロの計画を通信網上で話し合ったとしよう。通信提供元は公安と連携していると私は考える。だから、公に出さずに逮捕に来ているという事は、一般が知らないだけで多々ある事なのだろうと考える。
先にさんざん述べた事ではあるが、そもそも通信をしないという方法が最も効果的である。もし通信を使わなければいけないならば、そしてその通信内容が機密レベルなどであるならば、セキュリティを高める必要がある。
インターネットに保証された安全などない。よしんば保証された安全があったとしても、内通者はその内容を見る事も流す事もコピーする事もできる。そしてそういった事が、今まで実行されていないはずがない。
さらには、何らかの通信サービスを提供する者になる事で大量に個人情報を取得する等の事も可能である。そのセキュリティは、規約ではなく、サービス提供をしている人物のモラルと立場だけにゆだねられているのが現実だ。これほどセキュリティの甘い話は無い。
つまる所、セキュリティとは人のモラルという砂の上に立っている砂上の楼閣なのである。それは信用できるか?否。普通に考えて信用できるはずがない。この通信社会は盗聴の上に成立しているのである。
盗聴されたくない重要な話をする時は、インターネット一切と携帯電話、固定電話以外の以外の方法で話をするとよいだろう。郵便というものの信頼性も疑わしい。通信の手段が何であれ、他人が情報を媒体している事にかわりないからだ。
また、セキュリティ規格というものも疑わしい。規格があるという事は、セキュリティを解読できる人が居るという証明ではないか。そんな情報を売買していないだろうか?もちろん売買しているだろう。よもや、既存の通信網を使って盗聴されない通信をするためには、傍受しても解読できない内容にするのがよろしい。それがすなわち暗号化である。がしかし、暗号化で既に規格が策定されているものは厳重とはいえない。暗号化技術は、自分たちで作り、それを公開する事無く自分たちだけで使う事だ。
電話、インターネット等においてこの方法は有効かのように思えるが、実は安全ではない。なぜなら、「この規格にそっていない暗号は何だ?」という話になるからである。「策定されていない独自の暗号通信を使うなど、よほど洒落にならない事を話しているに違いない」と公安が判断する可能性がある。
ここまで書くと、つまる所プライバシーが完全に守られる通信方法など存在し得ない通信体系を作ってきた事がわかる。これを1億総被観察化と言わずして何と呼べばいいのか。また、理論上、上記の理由によりプライバシーの守られる通信というのは原理的に存在不可能という事がわかる。
なぜこの世界は盗聴天国にならざるを得なかったのか?そこには権力の力が見え隠れする。つまり、事実上の情報統制のためである。それと同時に、人間というものが愚かな種であるが故に、他人を信頼するという事が事実上不可能であるという心理学・哲学的な理由もある。
電話に出ない。電話をかけない。メールを送らない。メールを受信しない。インターネットを使わない。TVを見ない。首都圏から引っ越し、民家に住む・・などの、「脱情報化」をはかる事で、ある程度はましになるかもしれないが、そんな経緯のある家には間違いなく盗聴器が仕掛けられるであろう。そのためにも住民をデータで徹底的に管理している。(のかもしれないという可能性の話である。)
我々は既に管理下にあり、すべてをモニタリングされている可能性が大であると私は思わざるを得ない。
ただ、一つ希望があるとすれば、そのモニタリングされている内容が非常に人間的であったり、特に何も問題が無い場合は、これといって盗聴されていても問題にはならないという事だ。(もちろん、盗聴という言葉や行為そのものが実に不愉快なものではあるが。)
最後に。人間のモラルほどあてにならないものは歴史上、存在しなかったという事実がある事を忘れてはならない。
さて、これがつまり情報化、IT化の負の側面の重要な一部である。パソコンや携帯電話やTVの無かった時代だったらいいのにと思うかもしれないが、その時代には日本では紛争が絶えなかった。人々は刀で斬り合っていた。時代は違えど、結局、人は本質的に少なからず「業」を背負って生まれてくるという事だ。
真実はいつも重たいもので、内容は目をそむけたくなるものだ。しかし、真実を誰もが全く語らなくなった社会は、もはや健全では無いとも言える事は確かである。