現代のコンピュータ環境は、サーバ、クラスタ、スーパーコンピュータ、PC、携帯端末などから成り、ネットワークに接続されたプログラムを動かすハードウェアという図式になっている。
サーバ、クラスタ、スーパーコンピュータについては、さしあたって私には知識があまりないので、序盤では割愛する。問題は、日常的に我々が触れるPCや携帯端末の形式である。
現代では、PCに関してはノート型が主流になっている。ミドルタワーはマニアか研究者か予算の無い人向けとなった。ノートPCというフォームファクタは長い間ほぼ変わらなかったが、そろそろ変わる必要があるのではないだろうか。性能の進化が熱問題等で行き詰まった以上、進化できるポイントはフォームファクタやユーザーインターフェイスくらいしかない。
ユーザーインターフェイスについて、個人的に革新してほしい部分はディスプレイの形式である。一般的な液晶モニタは、正面から眺める事が難しく、ユーザーはつねに微妙に傾いた角度から画面を見ている。しかも、外の光の強さや色温度に左右されるので、きちんと画面を見る事ができない。
この問題を解決できる有力候補が、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)である。HMDは、外の光の状態がどうであるかという事に関係なく、真正面から見るという事が可能な唯一のモニタであり、消費電力は普通のモニタに比べて圧倒的に少なく、大型モニタ以上の大画面感を実現する事ができる。このように、いい事ずくめのHMDだが、比較的長く研究開発が進められているにも関わらず、普及しておらず、大手メーカーもHMDの普及に消極的である。
大手メーカーがなぜHMDについて消極的なのか。その答えは、装着している姿が一種病的に見えなくもないという事だ。人類は、HMDという素晴らしいディスプレイがあるにも関わらず、環境の中に画面があるという事に固執している。古代において壁画の絵を見ていた頃と、本質的には何ら進化していないのである。
HMDが目そのものを覆ってしまうのに対して、大型モニタは、いかに大型であろうとも環境の中にある。しかし実は、人類は既にある意味でHMDを使った事がある。それは映画館である。映画館においては、映画に集中するために、環境を真っ暗にして超大画面のスクリーンで見る。この状態は、HMD的である。ではなぜ、HMD的な体験の有用性をわかっているにも関わらず、最初の一歩を踏み出せないのか。
そのもう一つの答えは、安全性にある。現行のHMDでは、かぶっていると画面しか見えず、環境が見えなくなる。これでは、不測の事態に対応できず危険である。そしてもう一つの問題は、他人に自分の見ている内容が見えないという事だ。一般モニタであれば、複数の人数でのぞき込む事ができるが、HMDにはそれができない。
しかし、さしあたって複数人数でのぞき込めるようにする事は、技術的に可能であり、しかも難しくない。例えば、既存のノートPCから液晶画面の部分をとっぱらって、映像出力ケーブルをHMDにつなげるタイプの「板PC」というものはどうだろうか。映像出力のジャックを数個用意すれば、自分のHMDのケーブルをつなぐ事によって複数人数で画面を見る事ができる。もし、PCの解像度のリアルタイム映像を近距離無線で出力する事ができれば、ケーブルも省略できる。ユーザーは軽く電池も長持ちするキーボードとタッチパッドの板を持ち歩き、HMDを装着して仕事ができる。
もう一つの問題である安全性については、現行の、環境が全く見えなくなるHMDの設計を見直さなくてはならない。光を屈折させて眼球に投射するという方式はどうだろうか。その投射具合を調節する事で小画面にし、環境も見えるようにする事はできないだろうか。これは技術的に難しい上に、そこまでしてHMDにしなければならない理由とは何だろうかとも思ってしまう。HMDは、あくまでPC以上の用途向けであって、携帯端末向きではない事がわかる。
しかし、HMDとは考えるほど不気味なものである。例えば、家族でテレビを見るとき、先に説明したケーブル分配方式で見ているとしよう。みんな目隠しをして、笑ったり怒ったりする事になる。お互いの表情を確認する事もできない。やはり、他の人から見て気味の悪い光景ではある。しかし、こういった先端技術的な気味の悪さは何もHMDに限った事ではない。考えてみれば、空中からケータイへメールが飛んでくる事も不気味と言えば不気味だし、Wii Fitで、テレビの前でスポーツをするというのも、他の人から見ると不気味である。もっと言えば、コンピュータやテレビ、そこには誰もいないのに、感情を操作されるというのもまた不気味である。しかし人は、便利さや面白さが不気味さを上回った時、その技術を受け入れてきた。先に述べたHMDの構想は、マニアから一般人へと広がっていくというありがちな展開もあるかもしれない。