2009年1月25日日曜日

超能力は必要か

I'm EasyMan音楽セクションのMySpaceを
別ウィンドゥで開いて、新曲のDouble Leadでも
聴きながら読んでみてはどうだろうか。

フィクションの世界では、よく超能力やそれに類する能力が描かれる。その観客は普通、「そんなのはあり得ない」と文句を言ったりはしない。

Mixiニュースによると、「欲しい特殊能力ランキング」の一位はテレポーテーションだったという。

この事をふまえて、そもそも人間に超能力は必要なのかを少し考えてみたい。

テレポーテーションが一位になるというのは納得できる。単純に便利だからである。通勤通学も一瞬で、交通費もかからない。テレポーテーションに類似した能力としてアポーツ(物の取り寄せ)があるが、これが使えれば、忘れ物の心配をしなくて良くなりそうで、これまた便利だ。特にこれといった問題の無い能力に思える。ただ、万が一テレポートに失敗するとどうなるのかという疑問は残る。もし、自分が行った事のある場所でなくてもテレポートできるなら、特殊軍事機関などに誘拐、もしくは勧誘されて利用される可能性が高い。

超能力を大きく分けると、「テレポート」「サイコキネシス」「テレパシー/リーディング」の3系統があるが、テレパシーやリーディングは若干問題のある能力と思える。人は誰しも、やましい事を考える事があるものだ。周囲のそれがわかってしまうテレパスは、多くの場合精神的な負担が大きくなる事が懸念される。この対策としては、悪性の思念に耐性をつけるしかないのであるが、例えばその過程で当人の性格が歪んでしまう可能性がある。もし高度なテレパスが、繊細で傷つきやすい人であれば、精神を病んだり、自殺したりする可能性が高い。また、諜報機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。

そして、最も問題があると思われる能力が「サイコキネシス」である。ここでは、手を使わずに、つまり物理的な干渉をせずに、物理的に物体に干渉する、または何らかのエネルギーを放射する事を指す。よくフィクションであるように、超人的な力を発揮するサイコキノ(サイコキネシス能力者の呼び名)は、その力を発揮するシチュエーションが以下の二通りに大別できる。

1・人格者のサイコキノの場合は、しばしば、悪の組織からの自衛のために力を行使する。正義を掲げる組織の一員であったりする事が多い。

2・人格がよろしくないサイコキノの場合は、しばしば、自分の暴力的欲望のために力を行使する。法律の崩壊した世界観である事が多い。

超能力者、つまりエスパーは、その人本人が持つ人格によって、非常に危険で迷惑な存在にもなれば、便利な兵器にもなる。こと物理的な強い干渉力のあるサイコキノが、例えば性格に問題のある子供であったりしたらどうなるだろうか。些細な事でいちいち家を吹き飛ばされたり、ケンカになった時に相手が絶命してしまったりしかねない。ドラゴンボールのような戦争まがいの事をされては、一般市民的にはたまったものではない。何事にせよ、争わずに済むのがベストのはずである。

サイコキノも、見た目は普通の人間なので、これまた、軍事機関等に目をつけられ、誘拐、勧誘などされて利用される可能性が高い。利用価値は絶大と思われる。

あなたがもし超能力者であれば、以上のような理由から、能力を隠して生活したほうがいいという事になる。下手をすれば、能力ゆえに、一生能力を誰かに利用されて暮らさなければならなくなる可能性が高い。また本人にグレてもらっては、非常に危険でもある。サイコキノは、おだてて使わなくてはならない存在なのだ。

もう一つの最大の疑問がある。超能力のパワーソースは、どこから来ているのかという事である。実は、テレポートに関しては説明がつく。要は座標転移をするという事なので、エネルギーはさほど必要としないものと思われる。

テレパシーも、エネルギーにはあまり関係が無い。

しかし、サイコキネシスはその物理的エネルギーがどこから来ているのか不明である。少なくとも、摂取カロリーというわけでは無さそうだ。エネルギー保存の法則に従って、「ここではないどこか他の場所から」エネルギーを調達しているという事になる。

海外のGoogleの検索ワード1位になったドラゴンボールでは、これについて有名な描写がある。元気玉を生成する際に、「地球のみんな」から元気をわけてもらうというものである。要は、生体エネルギーを集めて電気的エネルギーに変換しているのではないか?

一方、「なのは」では、音声認識で操作できる高度な「デバイス」にひたすら頼りっきりで壊れたら修理しなくてはいけない、という事になっている。筆者の勝手な推測としては、あのデバイスはSun Rayのような一種のシンクライアントで、エネルギーは管理局の発電所あたりから転送されているのではないかと推測する。(デバイス単体でエネルギーをどこからともなく集める事は不可能だと思うから。)Sun Rayの事を調べてもらえば納得してもらえると思う。

また我々はなぜ、フィクション上の超能力を生理的な違和感を覚えずに鑑賞できるのだろうか?絶対にあり得ないと解っている事なら、ばかばかしくて見る気も起きないはずである。

そして最大の問題に言及する。実際には、派手な超能力を持った人というのは居ないという事である。サバンに関しては、一部の脳機能が非常によくできているというだけで、超能力ではないものとする。エスパー達がもし普通に居る程度の確率で存在したら、超能力者に関する法律もできているだろうし、超能力を用いた社会の混乱や犯罪も絶えないだろう。極論、我々の生活に超能力は必要ないのだ。確かに、最初のうちは生活上で多少便利な面はあるかもしれないが、誘拐、利用されたりする危険のほうが高いからである。ESPは、エスパー本人の人生に混乱をもたらし、周囲にも混乱をもたらす力だと言っても過言ではないかもしれない。本当に「スプーン折り」ができる日本のある人は、ドキュメンタリー「職業欄はエスパー」で「スプーンと一緒に人生も曲がった」という趣旨の発言をしている。

しかし実際には、現実にそういった派手な超能力者は居ない。某国の超能力機関の有能なエスパーでさえ、金属のさやに入った紙の文字を、テレビ番組で読み間違えたりしている程度なのだから。スプーンを触らずに折る人はすごいが、干渉力としては危険とはほど遠い、微々たるものに思える。

仮に強力なエスパーが特定の機関などに属しているとしても、その力を使う所は必ず誰かに目撃などされるものであり、仮に目撃した人を全員証拠隠滅のために葬っているのだとしても、今まで全く情報が漏れなかったというのはほとんど奇跡に近い。つまり、そういう事はおそらく無いのである。

(当サイトの、私のスプーン曲げ映像も、実は超能力ではなく、物理的なコツで、あっさり曲げているように見せかけて、力で曲げているにすぎない。)

次回は、「中世における魔法」について、続けて少し考える。